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2007年 03月 31日
・日本橋ヨヲコ『少女ファイト』1〜2巻。世間の評判を知りつつ何となく敬遠してたのだが、とってもヨカった。この先どーなるのかなー?
・野本明照『チナミの風景』。絵柄もいいし、お話もいい。途中ちょっとホロリとした。大体、僕は子どもと老人が出てくるマンガが好きで(小説も映画も好き)、一條裕子さんが大好きなのはそのせいもある。 ・谷川流『涼宮ハルヒの分裂』半分くらいまで。まだ何も起こりません。 ・ひさびさにタワレコで大量にCDを買った。ティンバランドの新作スゴいですね。ライナーを落としてしまった(「水声通信」といいマズいですね。しかもこういうことを書くとマジメでしっかりした編集者の方々に警戒され敬遠されるので……だったら落とすなよ!というツッコミもユニゾンで聞こえますが泣笑)Ferdinand et Diplomatesの『E-POP』も買いました。岸野さんほんとうにゴメンナサイ!。そして代打で素晴らしい(はっきり言って僕が書くよりも数十倍ちゃんとした)解説を書かれた横川理彦さんもゴメンナサイ。超オモシロカッコイイ作品なので皆、チェックするように。 ・そして本日はTBSラジオ「LIFE」の第一期最終日。サブ・パーソナリティ勢揃い。今日はラストということもあって、いつも以上にギャラリーが多くて、数えてないけど全員で30人以上は居たのではなかろうか。いつものように生放送〜ポッドキャスト用番外編収録〜居酒屋での打ち上げとあっという間に時間は流れ、普段はお店の閉まる午前1時半位でお開きになるのだが、今日は更に有志(といっても20名は居た)でカラオケに直行し、この番組で知り合わなければ絶対にありえなかっただろう豪華(?)組合せのデュオやコーラス隊(??)でマイク合戦に興じる。その詳細については僕自身を含む各人のイメージ遵守の為、ここでは書けません(笑)。ともかく異様な盛り上がりの中、気付いたら朝の5時になっていた。学生か?。しかもそれは閉店時間だったからで、もしも24時間営業の店だったら確実に7時か8時まで歌っていただろう。ともかくとても愉しかった。こんな感じは正直、ものすごく久しぶりのことだった。 ・最も印象的だったのは、打ち上げの挨拶で長谷川プロデューサーが、「今日は僕が10年間勤めてきて一番愉しかった日だった」と言ったことだ。感動した。だったら来月からの月一回の放送で、その「一番」を更新してゆこうじゃないか、ねえ長谷川君。僕はこの「LIFE」という番組では、名前の並びとは違って末席を汚すくらいの貢献しか出来ていないけど、4月からも参加させていただこうと思っている。とにかく、こんな番組は他には絶対ありえない。けっして大袈裟に言うのでも手前味噌でもなくて、奇跡的とも呼ぶべき邂逅の連鎖、ファイン・チューニングによって誕生し、そして今なお刻々と変化/進化し続けている番組だと思う。そして「他には絶対ありえない」ということだけでも、この番組には存在する価値がある。 ・来月からの「LIFE」は月一回、日曜深夜(月曜朝)の午前一時半から四時までの毎回二時間半ヴァージョンでお送りします。第二期第一回は4月22日の予定です。 http://www.tbsradio.jp/life/ ▲
by ATSAS
| 2007-03-31 23:17
| DAYS
2007年 03月 30日
・「論座」の新しい号にチャーリーが「ラジオ」がテーマの論考を寄せていた。「LIFE」の収録風景の写真も。しかし綿矢りさ×篠山紀信って(…)。
・新しい「エンタクシー」に中森明夫が書いていた中野幹隆の追悼文がとてもよかった。 ・おお、ついにハルヒの新刊が。 ・門前天井ホールで手塚夏子の振付による「関わりを解剖する二つの作品」。手塚さんのことはずっと名前しか知らなくて、例によって木村覚さん経由で強く興味を惹かれて、初めて観に行った。非常によかったと思う。色んなことを考えさせられた。尻切れトンボになっているダンスや演劇関係の幾つかのエントリの続きとともに、追って長い感想を書いてみたい。とりあえず今はただ、こないだの山賀ざくろ公演の時に僕の隣で見ていたひとが、今日はスタッフをしていて、絶対どっかで観たことあるんだけどなーとずっと気になっていたのだけど、ああーほうほう堂の片方の人(福留麻里さん)だった、と後で思い至りました、ということだけ(笑)。 ▲
by ATSAS
| 2007-03-30 22:10
| DAYS
2007年 03月 29日
にしすがも創造舎特設会場で「ベケット・ラジオ」。タイトルの通り、サミュエル・ベケット作のラジオ・ドラマ2本を二人の演出家が舞台にしたもの。阿部初美演出の「残り火」は二人の主要登場人物(ヘンリー=野村昇史とエイダ=谷川清美)の他に、ステージ上で砂利を踏む音とか馬の蹄の音とかいったサウンド・エフェクトを生音でこしらえる二人の人物(福田穀と永井秀樹。彼らは途中で出てくる教師役も演じる)、更に音響担当者も舞台上に上げて、まさしく本来は音だけである筈のラジオの生ドラマを視覚的に上演するという仕掛け。原作での「海の音」をラジオのホワイト・ノイズ&混信音に変えていたのが非常に効果的だった。
続く岡田利規演出の「カスカンド」は、「開く人」=松井周が左右にスピーカーが積まれてある以外には何もない舞台中央に座し、その後方に観客席に終始背を向けたまま「声」=増田理が居て(照明も殆ど当たっていない)、原作の指示に厳密に忠実に淡々と台詞が発されていく。そこに、この小品の第三の登場人物ともいうべき音楽(原作ではマルセロ・ミハロビッチの曲が使われたそうだが今回はなんとエイフェックス・ツイン。しかも『selected ambient works, volume 2 』から!)がスピーカーから間欠的に流れ出してくる。なんと岡田さんはベケットはおろか他人の作品を演出すること自体、初体験だったということだが、敢て(いかにもチェルフィッチュ岡田利規に期待されそうな)ギミックを排して、プレーンかつシンプルに正攻法で取り組んでみせたことが却って極めて新鮮だった。とにかく二人の俳優が圧倒的に素晴らしくて、途中から異様に引き込まれていった。舞台を見つめ、台詞を聴いている筈なのに、まるでベケットを「読んで」いるような感覚がした(これはもちろん最大級の賛辞である)。会場で渡されたリーフレットの文章の中で、岡田君はこう書いている。「俳優に要求したのは、言葉を延々と継ぐことが絶対に思念を展開させることに結びつかないようにすること。ほとんどたった一つのイメージだけで上演時間を過ごすこと」。これは驚くほど精確かつ過激なベケット理解だと思う。 会場ではいろいろな人と会い、いろいろな人を見かけた(さすがに客席には俳優さんたちが沢山いらして、ちょっとドキドキしましたよ笑)。終わってウロウロしていたら、いつのまにかレセプションになっていて、僕は全く知らなかったのだが笑いちおうビールを貰って、乾杯だけする。挨拶の中で岡田君が「(ベケットを演出することは)すごく簡単だった」と述べていたのがすごく面白かった。これは不遜でも傲慢でもなく、単なる自信の現れでもなく、要するにホントにカンタンだったのだと思う。そしてカンタンであることと恐ろしくハードであることは決して矛盾しない。 ▲
by ATSAS
| 2007-03-29 23:51
| REVIEW
2007年 03月 29日
・コレ、超オモシロイです。ハイ&ローテクで何でも作っちゃおうという雑誌。現在VOL.2まで刊行。VOL.1では「世界最大のMP3プレイヤー」とか「中古マウスで作るジャンクロボ、マウシー」とか「レコードのクローニング」とか、VOL.2では「家庭の分子生物学」とか「植物をハックせよ!」とかブルース・スターリングやコリイ・ドクトロウのエッセイなんかが読める。
http://www.oreilly.co.jp/books/9784873113180/ ・ああー!!いつのまにか「ガンダーラ映画祭」が終わってしまっていた!!!。松江哲明君の「童貞をプロデュース。2」が観たかったのに泣。 ・〆切に間に合わなかった説&2Pで収まらない説が危惧されていた「クイックジャパン」の連載「アナログバブルバス」ですが、なんとか入っておりました。ゲラ直し。森山君ありがとう(&いつもすみません!)。前にも書きましたが、この連載は僕にとってはまったく新しい試みで、かなり試行錯誤しつつ書いています。できれば立ち読みでもいいので(笑)一度見てみて欲しいと思います。QJの見開きに5000Wも詰め込んでいるので、文字が異様に小さいですが苦笑。 ▲
by ATSAS
| 2007-03-29 23:24
| DAYS
2007年 03月 28日
・予定をいろいろ変更してひたすら原稿。「インビテーション」のJPOP時評、森見登美彦インタビュー。もりみー(笑)、はてなに書いてくれてありがとうございます。http://d.hatena.ne.jp/Tomio/
・エンドリケリー☆エンドリケリーのニューアルバムが途方もなくスゴかった!!!。岡村ちゃん(て復活したんだよね?!)が居なくてもケリーがいる!。あとスパルタローカルズの新作も超よかった。イマ有頂天。そういえば有頂天ベスト2枚買わないとなー。 ・板尾創路『板尾日記2』一気読み。面白かったー。しかも『3』はもっと面白いんだって!。 ・さそうあきら『モナミちゃんねる!』。このコドモ路線は個人的にツボ。『やまだまるもちゃん』も大好きだった。 ・ストレス解消(?)に本を大量に買い込む。 ▲
by ATSAS
| 2007-03-28 22:53
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2007年 03月 27日
・ここへきて花粉症が悪化しているのは檜だという説。
・ひたすら原稿。新創刊「メフィスト」の鼎談のゲラ直し。そういえばその後、道尾秀介さんからメールをいただき、彼がある径路で入手したという古野まほろ氏の正体(?)にかなりの衝撃を受けた。ある意味、あの本の読み方が変わってしまう。「スタジオボイス」の「絶対安全文芸時評」。断っておきますが、あんなこと(とは次号を参照)書いたからって、喧嘩を売ってるつもりでも売ってほしいわけでも、買うつもりもないですからね。 ・「水声通信」のジョン・ケージ特集。ここだけの話ですが、僕は落としてしまいました(…)。どうしても依頼枚数以内に収められなかった(そして〆切期日以内にも終えられなかった泣)。最近は10枚〜15枚くらいというのが一番書きにくい。いつもより頁が少なく、束が薄くなってしまっていて責任を痛感する(裏情報によると翻訳もひとつ落ちたそうだ)。本当にすみませんでした。渋谷君と池上さんがナンバーピースについて対談してるのが読み応えあります。 ▲
by ATSAS
| 2007-03-27 23:38
| DAYS
2007年 03月 27日
豊崎由美『どれだけ読めば、気がすむの?』。とっても面白かった。トヨサキさんて莫言好きだよね(僕も好きです)。あとがきで触れられている、「わかる」「わからない」問題、は、最近の中原昌也がしつこいほどあちこちで繰り返している提言(?)や、こないだの「LIFE」の「教養」の回で語られていたことや、僕がQJの連載「イズミズム」で考えようとして破綻し、UNKNOWNMIXをまたやりたいと思ったこととかとも完全に繋がっている。
そこで思い出したので、前に「ブルータス」のCD特集に寄せたディスク・レコメンをアプしておきます。 未知なるもの、ワケのわからないもの、頭の中がクエスチョン・マークで一杯になるようなものに対する感性が、刻々と失われつつあると思います。みんな既に知ってる/分かってることばかり、知りたい/分かりたいように見える。音楽もまた然り。そこで敢て世の趨勢に叛旗を翻して(?)、何コレ?感溢れるナゾなディスクばかりを選んでみました。 CLASSIC ERASMUS FUSION / VOLCANO THE BEAR(BETA-LACTAM RING RECORDS MT092A) ヴォルケイノ・ザ・ベアーは英国レスターで結成されたカルテット。『痴愚神礼讃』で知られるエラスムスの名をタイトルに冠したこの二枚組アルバムは、独特の諧謔風味に満ちた暢気で陽気で不気味で不可解な演奏がたっぷり詰め込まれている。激ストレンジなのにどこか牧歌的な空気が素晴らしい。 GLASGOW SUNDAY / JANDEK(CORWOOD INDUSTRIES 0779 DVD) 四半世紀以上にも渡り、テキサス州ヒューストンから膨大な数のアルバムを発表している孤高のSSWジャンデック。究極のサイケとも評されるその世界は、音程感ゼロの鼻歌と弾けてないギターが特長(?)だが、一度聴いたら二度と忘れられない。これは初ライヴを収録したDVD。正に生きる伝説! CUSTOM COCK CONFUSED DEATH / HAIR STYLISTICS(CUTTING EDGE/AVEX INC. CTCR-16069) 最近インタビューや対談などで繰り返し世の中の「未知への鈍感」ぶりを嘆いている三島賞・野間文芸新人賞作家、中原昌也の音楽プロジェクト、ヘア・スタイリスティックス。暴力温泉芸者時代から一貫する(そして彼の小説の世界とも合致する)ズッコケぶりに隠された強度の批評性、そして愛。 THE MAURICIO KAGEL EDITION / MAURICIO KAGEL(WINTER & WINTER 910-128-2) 生存する最も奇矯な大作曲家であるマウリツィオ・カーゲルの豪華三枚組。凡そ高名な音楽家らしからぬトンデモないアイデアで有名だが、これも鳥笛だけのアンサンブルとか意味不明な音楽劇とか常識外れの楽曲が満載。更に3枚目のディスクは本人が監督した映画のDVD。これがまたナゾ過ぎて…! ![]() ![]() ![]() ![]() …とまあ、こんなだったわけですが、ところで以前、トヨサキさんの前著『そんなに読んでどうするの?』を読んだ際に、僕はこんなことを書いた。 今やはっきりと死に体の「文芸批評」に代わって台頭したのは「書評」ということで、この分野の先達ともいうべき永江朗や、先だって『現代SF1500冊 回天編』『同・乱闘編』(太田出版)という圧倒的な名著を上梓した大森望と並ぶ売れっ子が豊崎氏である。こんなこと僕が書くまでもないですが。この本も凄く面白い。「書評家レボリューション」は、「わかりたいあなた」と情報過飽和の交叉点から、半ば必然的に生まれてきた。現在、必要とされているのは、「批評」ではなく「ガイド」なのだ。実はこれは昔からそうだったのだが、「知」的な虚飾を纏っている余裕さえ遂になくなったということなのだと思う。最近のあらすじ本ブームや、音楽のディスク・ガイド本ブームなんかも同じ現象だと言える。いかなるジャンルにせよ、「リテラシー」を支えているのは、ある程度以上の量的&質的な受容体験であるわけだが、まさにこの本のタイトルが表わしているように、とにかく「そんなに読んで」るということ、それだけの時間と労力(とお金もかな?)を投資しているということ自体が価値なのだ。そしてそれは逆に言うと、最早ほとんど誰もそうする気がないということであり、それでも何故だか「わかりたい」という欲望だけは、どこかで空転しながらも生き延びているのだということだ。 (「イズミズム」第二回) ……今、読み直してみても、言いたいことに殆ど変化はない。今度の本の中でもトヨサキさんは「文芸批評」なるものを仮想敵にしている感があるのだが、その気持ちは痛いほどよく分かるとは思うものの、でも実はもうとっくの昔にその勝負はついているのじゃないでしょうか。今は完全に書評家の時代なのだ。トヨサキさんと同年代以下の「文芸批評家」の大半は大学教師や編集者との兼業か、フリーターでもあるか、でなければヒモか、そんなもんでしょう。 そしてしかし、「書評」だってほんとうは「批評」であるわけだし、そうありえるわけで(実際、豊崎由美の「書評」はれっきとした「文芸批評」だと僕は思う)、この二種類の違いは実のところ専ら形式的な違い(書名と作家名がテキストのタイトルになってるかどうかとか、文章の長さとか)と制度的な違い(載ってる媒体の違いとか、目次の中での扱いとか)に過ぎない。だからむしろ「文芸批評」から「書評」が切り出されてくるプロセスの方が、僕には気になる。 話をわかりやすくするために、音楽に置き換えてみよう。90年代に日本の音楽ジャーナリズムに何が起きたのかというと、これはもちろん12インチベースのクラブ・ミュージックの隆盛が大きく寄与しているのだが、レコード店バイヤーにディスク・レビューを書かせる音楽雑誌が急増したということが挙げられるだろう(それは輸入レコ屋チェーンの台頭ともパラレルな出来事だが)。この話は「LIFE」の「教養」の回の番外編で水越真希さんとも少ししたのだが、仕事柄、常に最新のリリース情報に触れているのは当然バイヤーであるわけで、それはすなわちマーケットにおける最新動向ということだが、速報性と目端の効かせ方を最大の目標とする限り、それは当然の成り行きであったのだと思う。そこで当時の僕が考えたのは、ならば自分はバイヤーに影響を与えたり、バイヤーのネタ元になるようなライターにならなくては、ということだったのだが(そして率直に言ってそれは結構成功したと思っている)、それはともかくとして、レコード・ショッピング・カタログとしてのディスク・レビューの隆盛は、情報の過飽和と商品の過剰供給とがもたらした必然ではあったのだが、たとえばクラブ系音楽が、ある時代と世代に枠取られたジャンルであったということがほぼ明らかになってしまったゼロ年代以降、それでも同じやり方しか出来ない音楽誌の多くは、これは自戒も込めて言うのだが、非常に苦しくなってしまったのではないかと思える。それは簡単に言うと、レコ屋で最新盤を買い求めるようなひとが刻々と減少してしまっているからだ。自分なりの現実認識として、僕はもはや音楽において「最新情報」の提示はほぼ意味を成さなくなっていると思う。そしてだからこそ、実は今こそ「音楽批評」と呼ばれるものが(それがどういうものなのか?という問いも含めて)重要になってきているとも思うのだ。かつては「こんなの出ましたよ」と「コレがオススメですよ」だけでも価値があった。しかし確実に状況は悪化しているのであって、それゆえに「レビュー」ではなく「批評」ということの必要性が、逆接的に生じている、というのが、今の僕の考えだ。 僕には、出版界における現在の「書評家の台頭」が、すこし昔に音楽の世界で起きていたことと、やはりどうしても重なって見えてしまう。しかも、ある意味もっとややこしくも問題だと思えることは、ある種の「ブック・レビュー」の言葉が、ありうべき「読者」に向けられているというよりも、むしろ端的に「マーケット」に、すなわち「書店員」だけに向いているとしか思えない場合があるということなのだ。そして更に、90年代の音楽におけるバイヤー=レビュワーの登場は、一時的にではあれ輸入盤市場の好況と繋がっていたのだが、こっちの方は明らかに、もはやシャレにならないほどに本が売れなくなっていっているという残酷な現実に即したものである、ということなのだ……。 実際のところ、その昔だったらば、トヨサキさんが繰り返し俎上にのっけているような、知的エリーティズムの一環として書物に臨む鼻持ちならない読者と、そんなんじゃなくて純粋な愉しみとして本を沢山読む人、という区別はあったし、その差異を強調することにも意味があった。けれどもしかし、今ではその差異は(全体の集合が縮小したせいで)ほとんどなくなってしまっているのじゃないかと僕には思える。良い悪いではなく、そういうことになってしまっているのだと。『どれだけ読めば』には、東大出版会のフリーペーパー「UP」に書かれた文章も収録されていて、テキストの冒頭には東大生へのおちょくりが掴みのネタとしてあるのだけれど、それでも確実に東大生協でこの本はかなり(おそらく他大学よりも)売れているだろうし、そもそも「UP」から依頼があるということ自体が、かつての見方からしたら思いも寄らず「敵」がすりよってきた、みたいなことなのであって(笑。でもまあ事実そうだと思うし、おそらくトヨサキさんもそう思っているだろう)、しかしそれは豊崎由美という一人の書き手の境遇の変容を示すのと同時に、ある程度以上書物を読む人というカテゴリーが、多様性を消失して収縮し、今やひとつの「業界=共同体」になりつつあるという事実をも指し示しているのではないかと思うのだ。 ▲
by ATSAS
| 2007-03-27 11:59
| THOUGHT
2007年 03月 26日
・今日のTBSラジオ「ストリーム」は、m-floのニューアルバムをご紹介。LOVESシリーズ熱烈支持!。昔だけどBOAとのなんていまだに彼女のベストチューンですよ。そういえばアルバムではないんですが、今度出るボニーピンクのニューシングルにカップリングされている「LOVE SONG」のDJ UPPERCUT REMIXがかなりイイ感じです。
・事務所のことであるミーティング。春、考えるべきことがあまりにも多い…… ・にしすがも創造舎特設会場で、東京国際芸術祭の一環でもある、ラビア・ムルエ作・演出の『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』を観た。「演劇から映像、美術、音楽まで軽やかにジャンルを横断し、世界のアート界に旋風を巻き起こすレバノン人アーティスト」(チラシより)だというムルエのことを僕は全然知らなかったのと、タイトルがなんか変で興味を持ったことと、チェルフィッチュ岡田君に勧められたこともあって、予備知識なしで行ってみたのだが、一言でいうとこれは相当な傑作だと思った。僕はレバノンの現代史を殆ど知らないが、「歴史」を語る(=圧縮する)ことと、それを「現在」に接続する、ということを、非常に秀抜なアイデアでやってのけていると思えた。ムルエ自身を含む四人の人物が、ソファに座ったまま、交互にひたすら自らの虚構の境遇について喋る。それはたとえば、「私は**年に***という指導者が率いる****という組織に加わり活動したが、**年*月**日、***事件の際に敵方の 待ち伏せに遭い射殺された」というようなもので、中東では死者を英雄としてポスターやチラシに掲げプロパガンダとすることが頻繁に行なわれているのだが、ソファの後ろには個々の人物別に小さなビデオ・スクリーンがあって、ひとつの死が語られるごとにそうした映像(おそらく実際のチラシやポスターの人物部分を俳優の姿に差し替えていて、途中から動画になったりもする)が映し出される。会話は一切なく、個々のモノローグだけ。だがこの作品が決定的にユニークなのは、そのようにしてひとりの人物の口から自らのいわば「生の途絶としての死」が独白されてから、すぐまたたとえば次のように続けられてゆく、ということだ。「その三週間後、死体置場から出された私は***の仲間となって****の闘いに参加した。しかし味方の裏切りによって**年*月*日、**日間の監禁と拷問の末に殺された」、「その三日後、路上に放置されたままだった私の死体はたまたま***に発見され、彼らとともに****まで行って新しい組織を作り上げた。しかしある時、食事をしていた店がとつぜん爆弾が破裂し、私は即死した」……つまり同じひとりの人物が、何度も(何十度も)死んでいき、すぐまた生かされて、また死ぬという生と死のありえない強度の反復が、ひたすらモノローグされていき、それがそのままレバノン史と重なっていくという作品なのだ。こう書くといかにも政治的でシリアスな作品だと思ってしまうかもしれないが、それぞれの人物の語りは妙にカジュアルで、死んだ筈なのにまたすぐ生き返ってまた死んで…という繰り返しは奇妙に残酷なユーモアを醸し出す。なぜ岡田君が興味を持ったのか、最後まで観てわかったような気がした。東京とレバノンというコンテクストの違い(もちろんこの違いは重要だが)を除けば、岡田利規とラビア・ムルエがやろうとしていることは明らかに通じ合っている。リアリティへの反省的な視線とか、語り=演技に何重にも距離/批評を導入していこうとするところとか。とにかく観に行ってよかったと思った。アフタートークがあり、ムルエが観客からのインタビューに答えた。日本語、英語、フランス語トリリンガルの通訳を驚くべき見事さでこなしていた映画監督の藤原敏史というひとがスゴかった。その時の質問で出たのだが、実はこの意味ありげなタイトルにはほとんど意味はなくて、ムルエは普段からタイトルになりそうなフレーズをストックしているのだそうで、これもそのひとつだったのだそう。なにしろナンシーなんてまったく出てこないですからね。会場の別のスペースではビデオ・インスタレーションもやっていて、これも興味深かった。ムルエの他の作品もぜひ観たいと思った。トークで少しだけ紹介されていた彼の別の作品のことを聞くと、たとえばソフィ・カルみたいなメタ・オートバイオグラフィカルなアーティストとも繋がる部分がある人のように思える。 ・堀田凱樹・酒井邦嘉『遺伝子・脳・言語 サイエンス・カフェの愉しみ』。めちゃめちゃ面白い。僕は昨今の「スピリチュアル」な「脳ブーム」には警戒感満載なのだが、最先端の現場の研究者が語る知見にはいつも多くの驚きがある。「手話の脳科学」という章には今まで全然知らなかったことが沢山書いてあった。手話は人工言語ではなく自然言語なんだということを、僕はわかっていなかった。読み進めるのが楽しみだ。 ▲
by ATSAS
| 2007-03-26 23:34
| DAYS
2007年 03月 25日
・高橋世織編『映画と写真は都市をどう描いたか』所収の黒沢清の講演原稿「映画のなかの都市の記憶」がとても面白かった。「ライフ」にゲストで出ていただいた時にしていた話も。
・木村覚さんがブログ(http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato)で推薦されていたので、千歳烏山のStudio GOOに山賀ざくろソロダンス公演「卒業」を観に行った。うーむむむ、という感じ。ちょっと今は時間がないので「うーむむむ」としか書けません。 ▲
by ATSAS
| 2007-03-25 22:22
| DAYS
2007年 03月 24日
・右の鼻からのべつまくなしに液体が(汚くてスミマセン)。眼球もかゆ痛い。
・遂に残すところラスト2回となったTBSラジオ「ライフ」。今日のテーマは「Jの時代」。出演者もゲストの高原基彰さん(『不安型ナショナリズムの時代』という好著を持つ気鋭の社会学者。現在韓国に留学中)を含めて総勢七名という賑やかさ(更に十数名のギャラリーが居るのでスタジオは本当に華やかだ)で、1時間とは思えない濃密な話に。今回に限らないことだけど、ポッドキャストは毎回生放送後に収録している番外編もぜひ聴いてほしい。もちろん生のパートだけでもちゃんと完結はしているけれど、ある意味では(そのまま続けて録っていることもあり)番外編は本編の補足というだけでなく更にテーマを突き詰めた「続き」でもあって、実は今も毎回、番組開始当初と同じ2時間の番組をやっているようなものなのだ。更に今日は打ち上げの酒席でもICレコーダーが廻るほど(笑)の盛り上がりぶり。いよいよ次週は第一期最終回、涙の卒業式です。http://www.tbsradio.jp/life/ ▲
by ATSAS
| 2007-03-24 22:04
| DAYS
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