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2007年 12月 05日
・あまりにも忙しくてこの日誌を書いてる実際の時と日時の間がかなりズレてしまっており、そのせいで読んだ本とかの時間的な記憶が非常に曖昧というかよく分からなくなってしまっている。元々このブログはそれらを記録する場なのだから(他のメモは一切取ってない)、最早一体何の為にあるのだか…。
・水声社から突如出た小島信夫の二冊『小説の楽しみ』と『書簡文学論』を読んだ。前者は亡くなる一年前に月に一度、三ヶ月に渡って行なわれた講義の採録。演劇と小説との差異について述べられているところが多くて、岡田利規、大谷能生、両氏は必読と思います。「小説の自由」を語る小島氏の語り口のなんと自由なこと。『書簡』は「手紙」をテーマにした小説論で、後半は『菅野満子の手紙』の自己解説になり、遺作長編『残光』と重なってくるのだが、全編の最後の一文には思わず虚を突かれ、一瞬置いて、感涙が襲った。 ・折角なので、前に書いた短い『残光』評を貼っておく。 『残光』小島信夫 書評(初出:インビテーション) 九十一歳の小説家、小島信夫による最新長編『残光』は、このページの名称である「日本・現在・文学」という称号が誠にふさわしい、真に驚異的な作品だ。この小説がもたらすインパクトを、どのように言葉にしたらいいのかわからない。ひとつ言えることは、疑いなく現在の文壇における最高齢現役作家のひとりである小島氏の、この比類なく感動的な一編と出会うのに、事前の文学的知識などは一切不要だということだ。芥川賞受賞作「アメリカン・スクール」も、「内向の世代」のことも、柄谷行人から坪内祐三までを虜にした長大な『別れる理由』も、知っていなければならないわけではない。あるいは今ならば、作中にも登場する保坂和志のファンから小島信夫を「発見」する人も多いのかもしれないが、別段、保坂氏の熱心な読者でなくても、いや極端に言うと、滅多に小説など手に取らない貴方にさえも、『残光』は決定的ともいうべき読後感を与えてくれることだろう。 ではこれはどんな小説なのか。綴られているのは、小島信夫本人に限りなく近い「ぼく」(「私」という一人称も混在している)の日々、である。十年前の長編『うるわしき日々』では、作家とともにアルコール中毒末期の息子を見舞っていた妻は、今ではアルツハイマーで記憶をなかば失って、地方の介護施設に居る。独りで暮らすようになった「ぼく」は、対談をしたり講演をしたり、この小説を書き進めたりしながら、妻と過ごした記憶を、それ以外の自分の過去を、書いてきた小説のことを、とりとめもなく思い出していく。その筆致は、私小説というよりも、ほとんど身辺雑記のようであり、唐突に読者に直接語りかけるような文体も登場したりする、自由闊達きわまる記述を読み進めながら、いつしか読者は複雑に織り重なった「時間」の襞へと誘われていく。 小島氏のほとんど全ての作品と同様に、この長編も過去の作品群と密接な関係を持っている。十作を超える過去の小島作品が参照されていて、中にはかなり長い引用もあるのだが、その引用の中で更なる過去が参照されていたりもするのだから、まるで迷宮である。だが繰り返すが、それらの旧作を読んでいる必要はない。ただ、小説家として長い長い時間を生きてきた「ぼく」が、いま生きているということを語るとは、こういうことなのだ……結末は哀しいものだが、それでも小説家はこう言っているように思える。小説にはやっていけないことなど何もないのだ、やれないことなど、何ひとつないのだ。 ・普通に動いていても、ずっとどこか視界に現実感がない。喋っていても、どこかずっと夢見心地だ。にもかかわらず、実際に寝ると心地の良くない夢を見て、起きたときには名状し難い哀しみに心が満ちていて、躯中がかちかちになっている。
by ATSAS
| 2007-12-05 23:45
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