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佐々木敦の批評ブログ
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2007年 06月 14日

「ブラック・スワン」第1回(「アナログ・バブルバス」ー「QJ」連載)

*「QJ」で連載していた「アナログ・バブルバス」の第一話「ブラック・スワン」を、連載中絶を記念(?)してアップします。全3回です。

(1)
 ブラック・スワンというのが、その映画の題名だった。
 四未満から最初に聞かされた時は、正直ヒドいネーミングだと思ったが、口には出さなかった。しかも彼は、いかにも深そうで浅い意味ありげなタイトルの意味を、一度もちゃんと説明しようとはしなかった。たぶん出来なかったのではないかと思う。
 それにその映画は結局、完成もしないままにどこかに消えたのだ。いや、完成寸前まではいった筈だったのだが、そのあと突然、どうかしてしまった。ブラック・スワンに関わった者の中で、現像されたフィルムを見たのは、監督本人を除けば僕と、当時四未満が付き合っていた(と当人が云っていた)T女子大の子ぐらいだったのではないか。あの文芸座の地下で、四未満は彼女のことを他の連中にスクリプターと紹介していて、編集作業も手伝わせる予定だと話していたのだから。もっとも現場で彼が用意してきた汚い手書きの絵コンテに則って撮影しつつ、同時に後でショットの順序がこんがらからないように大学ノートへ面倒だなと思いつつ逐一記録もしていたのはこの僕だったのだが。名前も忘れてしまったその女の子が実際に何をしていたのか、何かをしていたのかどうかさえ最早まったく記憶がない。背は高かったか低かったか普通だったか、眼鏡をかけていたのかどうか(四未満は眼鏡の女性が好きだった)、可愛かったのかそれほどでもなかったのか、まるきり覚えていないのだ。そしてそれを云うなら、そもそもあの映画にどんなショットがあったのかも、今となってはほとんど思い出せないのだ。覚えているのは薄暗い映画館の妙に埃臭い空気と、アリフレックスのひんやりとした感触と、ブラック・スワンという題名だけで、あとはすっかり消えてしまった。
 四未満と書いてシイマダと読むのだと喫茶店で彼は自己紹介をした。だがシマダでいい、とも。こんな名字のせいで俺はずいぶん苦労をしてきた。中高と五段階評価の成績票に四未満すなわち三以下があることが判明すると必ず周囲に囃されるから、常に四もしくは五であることを強いられ、そしてその結果、元々そんなつもりはなかったのにこうして東京の大学に合格して今、お前と話しているのだ。という割には彼は一年浪人していた(ことがすぐに露見した)。四未満は奄美大島の出身だった。年中暑くて何もやる気が起こらず、何もやる気が起こらないことに慣れ切った奴らが実際何もせずに一生をあそこで過ごしているのだ。時間が止まっているとかいうけど止まってるのは時間じゃない。あそこで止まってるのは空間の方だ。とにかく動くものが何も見えないんだよ。完全に静止したままなんだ。ひとが居る場所でさえそうなんだ。だから俺はもう二度とあそこに戻るつもりはない。だからなりゆきとはいえ東京に出てこられてよかった。そう彼は力説した。僕もまた名古屋から上京してきたばかりだったが、四未満ほどの強烈な嫌悪や絶望が地元にあるわけもなく、むしろ彼が語る日本の外れの島に漂う無為の結晶化ともいうべき濃密で空疎なムードに、憧れにも似た空想を抱きもした。実現することはなかったが、いつかこの男と奄美を訪ねてみるのもいいかもしれないとさえ考えたりもしたのだ。
 寺山修司と安部公房とデヴィッド・ボウイによって四未満と僕は意気投合したのだった。教室での立ち話から二人で喫茶店に流れて、それまでお互いの存在はなんとなく知っていたものの特に親しく言葉を交わすような仲ではなかったのに、その日は何か忘れてしまったきっかけからそんなことになり、ひたすら喋り続けて閉店まで粘ってそれから中村橋の僕のアパートで朝まで呑んだ。寺山はその年の春に亡くなっていたが、僕は天井桟敷の最終公演になった『レミング』をかろうじて観ていたので四未満に自慢した。名古屋の実家の本棚に『書を捨てよ町へ出よう』の文庫本があったので寺山修司という名前だけは幼い頃から知っていたが、背を眺めて内容を想像するだけでずっと読まずにいて、寺山の短歌も劇作もまったく知らなかったのに、高校二年の時に『田園に死す』をATG映画の特集上映で見て驚愕し、その頃までには図書館で借り出して戯曲集をおおかた読破していた。ちなみにこの時には鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』とか黒木和雄の『祭りの準備』とか大島渚の『儀式』なども一遍に見ていて、これらから受けたひとかたならぬショックが僕が東京に来た遠因のひとつであることはまちがいない。そもそも僕は映画を見るために/撮るために上京してきたのだったから。
 というような話をこちらが意外に感じるほど興味深そうに聞いていた四未満は、やがて自分も映画を作るつもりだと宣言したのだった。そこで僕はすでに属していた映画サークルに彼を誘うことになる。四未満はいちおう所属はしたものの、ほとんどまともに活動することはないまま、幽霊部員のような立場で時折サークル部屋に現れては無給に近い現場の労働力を補充しに来ていた、仕出し屋のような先輩(しかしこの先輩は数年前にぴあフィルムフェスティバルで入賞を果たしたということでサークル内ではなかば神格化されていた。黒澤明を信奉するその先輩の「傑作」を僕も新歓上映会で見せられたのだが、観念的で文学的な、つまりは青臭い表現が大好きだった筈の当時の僕でさえ、あまりにもわけがわからなくてとてもついていけないと思ったものだ。しかしそれから十数年後、僕はこの先輩の名前を一世を風靡したアニメの脚本家として再び見ることになる)の手引きでピンク映画の照明スタッフの手伝いをするようになり、やがて学校にもまったく出てこなくなった。その頃には僕も授業には一切出なくなっていたが、四未満と違って僕は現場のバイトには一度きりしか行かなかった。代わりにサークルを拠点に8ミリ映画を長短併せて五本撮った。その中の一本、主演女優を共有する二本の映画の撮影が何故か同じスタジオで同時に行なわれていて、実は映画だけでなく二人の監督がその女性をめぐって恋の鞘当てを演じているらしきことが次第に分かってくるという作品で、四未満は最初からずっとその場に居たのにもかかわらず、一度も画面に登場することがなかったがゆえに観客の誰ひとりとしてその存在に最後の最後まで気付かない女優の恋人という役で出演している。しかし彼は自分では一本も8ミリを撮ることはなかった。最初から金を貯めて16ミリフィルムで作るつもりでいて、ブラック・スワンは彼の監督第一作になる予定だったのだ。
 安部公房のベストは何といっても『砂の女』だよ、勅使河原の映画はちょっと描き過ぎだけどな、と四未満はやたら偉そうに云っていた。結論めいたことをいきなり、殊更に事もなげに言い放ちたがるのが彼のクセで、論証と呼べるようなものは殆どなくて単に好き嫌いだけのようにも思えたが、喋り方はどちらかと言うとモゴモゴと篭りがちでけっして聴き取り易くはないのに、中味は常に思い切りクリアカットな所は、確かめたわけではなかったが停止したままの空間から脱出を志す過程で後天的に修得した態度ではないかと思われた。何ごとにつけ、明確で明快に整理してみせるのがウケた時代でもあり、僕もまた、わからないことに惹かれながらも、わかったと思い込める機運は逃さないだけの若さは持ち合わせていた。そこで僕は返答した。『砂の女』は確かに傑作だが、一見地味な『燃えつきた地図』の方が実はずっとすごい。しかし安部公房でもしも一作だけ挙げるとするなら、自分は『箱男』と言うだろう。なぜなら、あの作品は小説というより一種の機械のようなものなんだ、そうまさしく、無数の歯車が収められた箱のようなもので、そのメカニズムはまるで永久機械のようにひたすら駆動しつつ、箱の外側にはまったく作用しないし、何も産み出さない。それはそれ自身を動かすだけのエネルギーを作っているのみなんだ。これってある意味途轍もなく贅沢なことじゃないか。ある意味、と、いかなる意味であるのかは一向に示さぬまましばしば口にするのが僕の癖で、それは今でも続いている。
 四未満とは学内で顔を合わせることはほとんどなくなったが、代わりに月に一度か二度、僕は彼のアパートに泊まりに行くようになった。当時、彼は西武新宿線のずっと先の方に部屋を借りていて、終電が早いせいか新宿や馬場で呑んでいても落ち着かず、レコードを貸すからうちに来いと云い出すのだった。二、三回に一度くらいは同じくサークルで知り合った安本という男が一緒だった。安本は山川方夫のファンで、明らかに映画よりも文学を好んでいたし、そもそも映画の話をすることさえなく、なぜ映画のサークルに居たのかもよくわからない。当然のように四未満同様、サークルからはすぐに疎遠になってしまったのだが、なぜか僕が映画を作る時には必ず手伝うからと言ってくれていて、実際、何度か撮影に駆り出すことになった。そういえばある時、新宿の歩行者天国の日に、どちらもトレンチコート姿に黒いサングラスといういかにもないでたちの四未満と安本が、路上で女性を拉致する、という実に学生映画にありがちなシーンを撮ったことがあった。しかもそのシーンは辻褄も何もない完全な思いつきで、人々の怪訝な視線に耐えつつ何度も同じ仕草を繰り返させてフィルムに収めたあげく、結局はどこにも使わずに廃棄したのだった。四未満は普段は不遜な言動で売っている割にはシャイで、衆目を浴びて非常につらそうだったのに、安本は嬉々として悪漢を演じていた。
 レコードを貸すとか言いながら、実際には僕が四未満に新しい音を聴かせることの方が多かったように思う。彼は『ジギー・スターダスト』を愛聴していて、繰り返し繰り返し針を落としていた。ダラダラ話しながらずっと何かをかけていて、しかし深夜というより明け方に近くなるといつも、なんだかジギーがまた聴きたくなってきたよ俺、どうしても一回聴かないと治まりそうにないわ、なんかさあ中毒みたいになる時ってない?、などとひとりごちながら、いそいそと盤を持ち出してくるのだった。4曲目の「スターマン」が流れ出すと、彼は常に完全に沈黙した。僕や安本にも発言を許さず、ボウイのエキセントリックな歌声にひたすら耳を傾けている。そしてレコードが終わると、われわれは眠りについた。
 ブラック・スワンのことを最初に聞いたのも、そんな夜のことだったと思う。それは無謀な計画だった。どう考えても実現することはないと思えたが、四未満はしかし、かなりのところまではやってのけたのである。
by ATSAS | 2007-06-14 10:18 | WORK
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