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2007年 04月 04日
神戸アートビレッジセンターが主催した展覧会「神戸アートアニュアル」のドキュメント・ブックが届いた。瀟酒な白い箱に実に十年分の企画のカタログが分冊になって収められている。
僕が参加したのは2003年の「Grip the Gap」という企画展だが、非売品のようなので、カタログに掲載されたレクチャーの採録を以下にアップしておく。 「神戸アートアニュアル2003 Grip the Gap 」 ゲストトーク 佐々木 敦 11月8日(土)17:30〜 佐々木敦(批評家) ■音という物理現象/音楽から見た「Grip the Gap」 美術の展覧会にこういう形でトークに呼んで頂いたのは初めてなので、最初はちょっとした戸惑いのようなものがありました。ところが「Grip the Gap」という展覧会タイトルと、その説明を踏まえながら作品を見てみたら、僕に声が掛かった理由が自分なりに理解できた気がしたのです。事前に出品作家のインタビュー映像を拝見したのですが、皆さんがそれぞれに「美術とは何か?」という問いを持ってらっしゃるような印象がありました。美術という概念は何か確固たる内容を持っていると言うよりも、誰かが何らかの理由付けをもって「これは美術だ」という風に名指した途端に、美術になるんじゃないかと思うんです。そう考えることが可能なぐらい、美術という概念が拡張してきた歴史があると思うんですね。 音楽と美術を比較した時に決定的に違うのは、音楽の場合は音という現象や、聴くという具体的な行為が関与していないと、やっぱり音楽、音にはならない。美術の場合は、たとえばコンセプチュアル・アートのように。ある概念やアイデア自体をアートと呼ぶこともあると思うんですけど、音楽の場合、音自体は空気中の物理的な振動現象なので、何も聴こえていないのに何かを指して「これは音楽だ」というのは、もしあったとしても一種の比喩的な表現に過ぎない。まず聴取が可能であるということが音楽の第一条件だと言えます。 まず聴取が具体的・物理的に可能だったとしても、つぎに音楽と単なる音との境界線を定義するのは、実はかなり難しい問題です。誰かが聴いて「こんなのは音楽じゃない」と思ったとしても、別の誰かにとっては「音楽」として鑑賞できたりもする。もちろん、自分自身の耳で判断して音楽かそうでないかを確定するのは大切なことですが、同じひとの耳でも時間とともに変化してゆくことがあるかもしれない。以前は到底、音楽とは認められなかったような音が、ある時とつぜん、音楽的に聴こえ始めるということだってありえる。 つまり、音と音楽の隙間の部分をどう埋めてゆくのか、ということです。これはまさに「Grip the Gap」と言うことなんじゃないかと思ったのです。そこで、一聴するかぎりでは多くの人にとって音楽とは思えないかもしれないような音による表現をいくつかご紹介してみたいと思います。 ■ 固定概念を取り払う/ヴォイス・クラック ノルベルト・メスラングとアンディ・グールというスイス人の二人組からなるヴォイス・クラックは、最近アートの方でもインスタレーションとかを始めてるんですが、元々はジャズの演奏家で、デュオとして演奏をしていました。ところがある時から電気製品の廃品を集めてきて自分たちで勝手に改造して音が出る機械を作り、「クラックド・エブリデイ・エレクトロニクス」と彼らは呼んでいるんですが、その他には楽器と呼ばれるものは一切使わないで演奏をすることを始めました。 そういうものだから、とにかく音を出してみるまでは、どんなサウンドか事前にはわかりません。つまり普通に楽器を用いて行なわれるような作曲や演奏が、あらかじめ不可能になってしまっている。まずマシンが予想もしなかったような音を発して、それからそれをどう料理するかを考える。そしてその音を音楽として演奏することを試みる。彼らはいわば毎回楽器を発明し直しているようなものであって、そこがすごくユニークだと思います。音楽は楽器でやるものという固定概念をひとたび完全に取り払ってしまうと、音の持っている可能性は非常に幅広くなってくるんですね。 ■音楽と音の間/アニミスト・オーケストラ アメリカのアニミスト・オーケストラは、楽器や音を出すための道具を使わずに、木や小枝や草や小石などといった自然物を拾ってきて、それらを触れ合わせたり擦ったりといった行為によって音を発して、一種の合奏を行ないます。カーペットが敷いてある広い空間に自然界のオブジェを並べて、みんなでいじって、その音をマイクで拾って、ライヴ・レコーディングするわけです。似たようなことをやっている人は結構多いのですが、10人以上のオーケストラで、定期的にパフォーマンスをやっていて、CDまで出しちゃったと言うケースは彼らくらいですね。しかもちゃんと独自に考案したスコアもあるんです。 ひとつ思うのは、このCDを何も説明を受けずにただ音だけ聴いたとしたら、何がなんだか分からないだろうと思うんですね。どうやって音を出してるのかさえ分からない。写真を見たり説明を読めばある程度理解できるけれど、そうしたものから切り離されて音だけになってしまうと、その音源や音を発する方法は捨象されてしまう。そこがとても面白い。視覚や言語を持たないことによって、純粋にリスニングのみの美というか、聴覚的な美学というものが立ち上がってくる。音を振動にまで還元するのなら、何によって、とか、どうやって、というようなことは関係なくなる。ピュアなサウンドだけが意味を持つようになるわけです。 ■ もう一方の音の面白さ/フィールドレコーディング フィールドレコーディングとは、特定のある時ある場所における音をそのまま丸ごと録音することです。コンセプチュアルなサウンドアートの集団である「WrK」のメンバーでもある角田俊也が、この手法を用いて数多くのCDを発表しています。フィールドレコーディングという方法論を突き詰めてゆくと、たとえば普通の人間の耳ではほとんど聴こえていない、あるいはまったく認識できないけれど、高性能のマイクでなら記録できるような微細な音であったり、たとえば地面の振動によるグラウンド・ノイズのような、そこに在るのに聴こえていない音に向き合うことになります。そうしてそれらを音楽的に聴くことが出来るようにもなる。角田さんはしかし、ただランダムにどこでも音を採集しているわけでも、面白い音が捕れそうな場所に出掛けていくのでもなくて、彼が実際に住んでいる場所、生活している土地の中で録音ポイントを探しているそうです。それはいわば音による一種の地域研究というか郷土史みたいな部分があるのです。市役所や図書館で自分が住んでいる町の事を調べることと本質的には似た行為なのだと彼は言っています。 角田さんのやっていることは、一方では非常にコンセプチュアルに、音とは何か、聴くとは何か、というような問題を扱っており、その意味でも深い思考を促すものではあるのですが、同時にもう一方では、角田俊也という一人の生身の人間が、この世界に生存している、という端的な、かけがえのない事実性とも深く関わっている。このことはとても重要だと僕は思います。さきほどのアニミスト・オーケストラのように、音の出自や由来を完全に切断してしまって、純粋にオーディブル(聴取可能)な音にのみフォーカスするというのも面白いのですが、それにしたって実際には録音した人間には顔もあれば名前もあり、それぞれの生活があるわけですね。そして彼らのCDを聴くわれわれにもそれはある。だから実際にはどこまでいっても完全にコンセプトだけに抽象化できるわけではないとも言える。音は物理現象なのだけど、録音や聴取には社会的な関係性やパーソナリティが必然的に関わってくる。この両義性は押さえておかなければいけないことだと思います。 ■ 自分/他者/世界を批判すること もしも音楽というものを定義するとしたら、それはもしかしたら世界中の人間の数だけ定義付けがあるのかもしれないとも思うんですが、では単にそういう無限にも近いようなヴァリエーションの話なのかというと、それだけではない。たとえばここで僕が「私はこれを音楽と呼ぶ」と言ったとして、「私は」の代わりに「誰かが」を代入して「誰かがそれを音楽と呼ぶ」としたら、それは僕は音楽とは思わない音が音楽でありえる可能性の話になる。でも、もっとその先には「誰もがそれを音楽と呼ぶ」というのもあるのかもしれない。まあ実際にはあると思いますが、でもたとえばビートルズだって「俺にとってはこんなの音楽じゃない」という人が絶対にいないとは限らないし、これから生まれてくるかもわからないし、第一そんなことは確かめようがないわけですね。だからたとえば「他の誰がどう思おうと、私にとってこれは音楽である」ということと、「誰にとってもこれは音楽である」という両極のあいだに、「誰かにとってそれは音楽である」という可能性の帯域があって、そこにこそ意味があるのだと僕は思います。どちらかの極に偏ってしまったら、音と音楽のギャップをポジティヴに考える契機は失われてしまう。 「私」と「他者」というか、もっと大きい言葉で言えば「私」と「世界」との間で、どちらかに軍配をあげるということではなく、かといって両方をただ単に認めるだけでもなく、両者が常に健康的で生産的な意味で、お互いにとって批判的なポジションにあるような関係性を築きながら、何らかの表現が行われていくのが面白いことだと思うんですね。だから音楽でも美術でも、頭の中がクエスチョンマークで一杯になるような未知なる体験が、一番重要なのではないかと思います。大抵の場合、そういう体験は自分でコントロールして出会うのではなくて、ある時突然にやってくるんです。未知との遭遇です。でもただ漫然としているだけで遭遇できるとも限らない。だからそういう機会が不意に生じる可能性に対して、どうやって普段から自らを開いておくかというか、未知との遭遇を招き寄せるような無意識の準備が必要だと思うんですね。 これは美術や音楽に限らないことですが、世界には無数の価値基準が存在していて、別に意識的にそうするわけではないとしても、どれだけたくさんの互いに矛盾しあう価値判断の基準を自分ひとりの内に抱え込めるかが、僕はその人間のある種の豊かさを保証する部分だと思うのです。ギャップはけっして無くならないし、ある意味無くなってしまったら困るとも思いますが、その隙間を繊細かつ大胆に埋めてゆく作業が、重要なのだと思っています。
by ATSAS
| 2007-04-04 18:36
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