日曜日の予習のため、桜井圭介・いとうせいこう・押切伸一『西麻布ダンス教室』を読む。とても勉強になったのだが、デリダとかドゥルーズ&ガタリとかバルトとか、リファレンスの数々の濃厚なニューアカさ(?)にはいささか戸惑ってしまった。これはもちろん実際のダンサーやコレオグラファーたちがこのあたりのいわゆる「現代思想」との親近性を色濃く持ってたりすることもあるのだろうけれど、にしてもこの本の初版は94年なのだが、ということは「ニューアカ」からはほぼ十年が経過していたことになるわけで、当時としてはやっぱりさすがにこんな類いの「知」の援用・導入のありさまはかなーり“浮いて”いたのではなかろうか?……などと一瞬思ってしまったのだけど、アレでももしや?、と思って今調べてみたら、あの『知の技法』は同じ94年の刊行だったのでした。うーんなるほどね(…)。そしてゼロナナの現在、こうゆうのがふたたびウケ線になりつつあるような感じも僕には微妙にしている。ニューアカはエリーティズムとディレッタンティズムを背後に濃厚に隠していたわけだが(隠せてませんでしたが←実は特に隠す気もなかったわけですが)、当時へのノスタルジーを多かれ少なかれ保持したままオヤジになった僕と同じくらいの世代(=いわゆるニューアカ世代?)の方々が色んなところでそれなりにエラくなっていたりして、そんな連中の大なり小なりの高踏趣味とウンチク癖とが、そのような排除と選別的(笑)な「知」の会得を他人との差異化=アイデンティフィケーションのツールとしてついつい必要としてしまうような一部の若者(の中には「知」とか「ニューアカ」とか「80年代」みたいなアレコレに殊更に反撥しているポーズを取りたがる人達も当然含まれる)の良くも悪くも幼い動機づけと何故か見事にリンクしたりして、数年前あたりからまたじわじわじわと復活してきているような気がするのだ。といってもかつてに較べればそれはものすごく受容の実数的には縮小してしまってはいるのだが、その縮小はそこだけが縮んだわけでなく全体のパイが縮んでいってるのであるから、むしろ相対的には浮上しているように映るということだ。このあたりのことについては「クイックジャパン」の前連載「イズミズム」の最終回で書いたいわゆる「ニューニューアカ問題」とも関わるし(そういえば前ブログで同連載のラストのこの回だけテキストをアプしてない理由は、言葉が足らない気がしたのでもすこし自分なりに整理して考えてみたいとゆうことと、あとは端的に色々とウザそうだからです)、昨今の出版界におけるかなりあからさまな「啓蒙書ブーム」とか、あとたとえば菊地成孔さんのブレイクなんかとも深く関係していることではないかと僕には思える。
(追記:言うまでもなくこのエントリの後半のアレコレは『西麻布ダンス教室』への難癖や揶揄などではない。この本は僕のようなダンス素人が現在あらためて読んでみても、その歴史的把握と問題意識の射程において、有用性と有効性を失っていないどころか、今なおほとんど唯一にして最良の「日本語で著わされたダンス入門」であると思える。それに何よりも非常に面白い。誤解なきよう。そして木村覚さんが今回の「超詳解!20世紀ダンス入門」でやろうとしていることが、まず第一にこの本のアップデイトであるということは、第一回の講義にあたって、『西麻布ダンス教室』の冒頭に付されたマトリックスと、木村氏自身が新たに作成したマトリックスが一緒に配布されていたことにも現れている)。