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2007年 01月 12日
以下は、サブパーソナリティーとして時々出演しているTBSラジオ「LIFE」の(毎週土曜日午後8時〜9時。http://www.tbsradio.jp/life/)の今週末の放送「失われた10年 Lost Generation?」に関して、番組プロデューサーに送ったメールの抜粋。僕は別件で出演できないのだが、結局オレはこういうメタな茶々(?)ばっかり気になってしまうんだな(…)。
話の前提としては、同じくサブパソで出演予定の仲俣暁生のブログ(http://d.hatena.ne.jp/solar/)も参照して欲しい。 以下、メールの抜粋。 ロスト・ジェネレーションといったとき、ロスト=失われた、というのが、誰にとってそう意識されているのか、という問いがあると思います。 どこかの誰かが自らとは異なる集団(世代?)をロストと名付けることの問題と、ある集団(世代)が自分らをロストと規定することの問題、言うまでもなく、この二つはいろんな形で接続しているのですが、まず前者が(仲俣君が考察しているような誤解や策謀?によって)どこかから出てきて、それは完全なフレームアップではなくて、やはりそういう言説が出てくるだけの土壌というか道具立てはあったりするわけですよね、そしてそれに対する、そう規定された側からの反抗というか反撥が生じる。 それは、 1)どんなものであれ個が集団へとカテゴライズされることへの反感(個人性というか差異の捨象への違和) 2)それがおおむね、それよりもっと大きな集団=社会から見てマージナルな、いわば差別的な(無)意識を含んでいることへの反感 3)そうした差別的視点の対象に自分が入れられている(らしい)ことが本当に正当なのか?(正当であったらどうしよう???)というような一種の煩悶? というような過程を経て、やがて彼らは「オレ(たち)は**じゃない!」という反撥から、そのカテゴリーがどうやらはっきり定立してしまうと、今度は「オレ(たち)は**だが、それで何が悪い?!」へと転換する。それは、そうせざるをえないからです。つまり、被差別意識をアイデンティティの根幹、というか自分が自分であることへの誇り?、へと反転させる「しかなくなる」。 たとえば「オタク」という言葉が辿ったのは、こういう過程だったのではないかと。 と、するなら、今度の「ロスト」もまた、やっぱりこれとちょっと似ているように思えます。 朝日新聞とか/ロストジェネレーションが存在する 仲俣君とか/ロストというカテゴライズはミステイクである。あるいはミステイクを敢てする意図が潜在している。 「ロスト」世代/ロストじゃない→ロストである→ロストですけど何か?→ロストであることにこそ他の世代に対するポジティヴな差異がある。 ひとつのポイントは、これが一種の世代論になっているということですね。 重要なことは、ある(ネガティヴな意味合いを含んだ)キーワードでカテゴライズされた集団に含まれているという認識を持った個にとっては、どうにかしてそのネガティヴィティを反転、払拭したいという欲望が生じるし、そこまで出来なくても、それをなんとか合理化しなくてはならない、ということです。 そして、そういう意志の駆動は、最初にそういうキーワードが出てきて以後、命名者ともそう名指された側とも異なる、いわば客観的な第三者たちによって何度となくそのカテゴライズの在り方の正当性に異議が向けられてきた筈の、恣意的なカテゴライズにもともとは源泉を持っているのだ、ということです。 世代論的な構図がむしろミスリーディングを誘っている面があるような気もするので、ちょっと別の例を出してみます。 いわゆる「J文学」が流行?した時、中森明夫がどこかで「J文学については批判するつもりはない。なぜなら、批判するのは簡単だが、そうするとそれが存在していることになってしまうからだ」というようなことを書いていました。この指摘は重要だった(ちなみに「J文学」という言葉を作ったのは僕です。『ソフトアンドハード』参照)。 一時期、浅田彰やスガ秀実とかが、「J文学」に限らず「J」という語にナショナリズムの萌芽を嗅ぎ取って批判していましたが、これはJリーグでもJPOPでも同じだと思うけど、Jが冠された時にはそんなものは存在していない、というのが僕の意見です。Jにナショナリズムが貼り付いてくるのは、J=ナショナリズム、という批判的言説が出てきて「から」です。 しかし中森さんが危惧したような回路を戦略的に利用する、という手はある。僕は実際、音楽の分野では、それを有効に活用しました(ローファイ/ポストロック/音響派など)。 「J文学」でも「ポストロック」でも、その中にカテゴライズされた当の作家や音楽家たちは、ほとんど全員がそんなキーワードを実際には無視するか反撥を宣言していました。 しかし、そうしたキーワードがもうすこし一般化すると、つまりマスコミやマーケットで一定のプレゼンスを得るようになると、自ら「J文学」とか「ポストロック」とか名乗る者たちが出てきました。しかしその時、そもそもそのような新たなキーワードでカテゴライズしたくなるような同時多発的なムーヴメントは、明らかに終息に向かっている。あるいは、「これは使える/使っていい」となると、態度を一変させて名指されることに寛容、積極的になる者もいる。 長くなりましたが、さしあたり僕が言いたいことは、要するに、名指す側と、それを判断する側と、名指された側、の立場は相当に違っていて、とりわけ「名指された側」には集団的な分布の上でも、時間的な経緯の中でも、かなり複雑な変化が生じる。 「J文学」や「ポストロック」の場合は、それ自体がちっちゃいから、「名指された側」の色分けもよりちっちゃいので、あまり問題にならないけれど、ある世代自体を名指すような、つまりロストみたいなキーワードの場合は、その色分けの部分それぞれもけっこう大きくなるから、そこから出てくる反応も目立つ、ように見えることがあるかもしれない。 つまり「ロスト」に(最初はネガティヴに、次いでそれをそのまま反転させた形でーーすなわち実際にはネガティヴィティ=被差別意識を暗に保持したままーーポジティヴに)アイデンティファイする言説が、当然出てくるだろうということで、そして敢て言えば、それって意味あるの?、というようなことです笑。
by ATSAS
| 2007-01-12 13:02
| THOUGHT
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