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2007年 08月 19日
ブレインズ第一期の講師陣の関連ページなどです。
大谷能生さんはブログはありませんが、ココに最新情報が頻繁にアップされてます。彼の初単著『貧しい音楽』は、月曜社から9月上旬に刊行予定です。 木村覚さんのブログと、氏がよく寄稿しているウェブマガジン。 仲俣暁生さんのブログ。 森山さんや僕も出演しているTBSラジオの番組「Life」のHPでは、彼のインタビューがポッドキャストで聴けます。 畠中実さんもブログを復活させました。彼が勤務するICCのサイトはココです。 森山裕之さんは個人ブログはありませんが、「dankaiパンチ」の公式ブログに近況が書き込まれています。 あと、ミクシィ等にも色々ありそうですが、僕はやってないので分かりません。あしからず。 というわけで、申し込み〆切まであと十日余りですが、その前に全講座満席になってしまう可能性が大です。迷ってる方は是非お急ぎを(とゆって煽る笑)。 あ、あと、なんでか何度も「プロは駄目なんですよね?」的なことを言われたりしたんですが、そんなことは全然ない(筈)ですよ。僕はプロ/アマという二項対立は苦手です。 2007年 08月 08日
![]() 発表します。 事務所の一室を使って、小さな「学校」を始めることにしました。 名前はBRAINZ−ブレインズです。 http://brainz-jp.com/ 第一期のカリキュラムは以下の通りです。 ●「二〇世紀の「批評」を読む」大谷能生 ●「フィジカル・アート・セオリー入門」木村覚 ●「精読『極西文学論』」仲俣暁生 ●「キュレーションの現場/批評と実践」畠中実 ●「実践的カルチャー雑誌編集者養成講座」森山裕之 ●「批評家養成ギブス」佐々木敦 詳細はHPを御覧ください。 多くの方にご参加いただけることを期待しています(あまり多くても困りますが←狭いので)。 よろしくお願いします。 2007年 07月 06日
・「文藝」の「特集古川日出男」でロング・インタビューの聞き手を務めました。
・「文學界」に中山智幸『さりぎわの歩き方』の書評を書きました。 ・「エスクワイア」にマーガレット・レン・タンのインタビュー記事を書きました(ただし異様に短いものです)。 ・オムニバス・アニメ映画『GENIUS PARTY』のオフィシャル・ブック「GeniusParty MOOK」で渡辺信一郎監督と対談しています。 ・「スタジオボイス」の「絶対安全文芸時評」、今月の十編は、 「阿佐ヶ谷猫と夜の怪物」樋口直哉(すばる7月号) 「ジラルデ風のロニョン」樋口直哉(早稲田文學フリイペーパー91/2号) 「叱れフルカワヒデオ叱れ」古川日出男(hon-nin vol.03) 「牛乳と隕石」春日武彦(文學界7月号) 「眷族」玄月(群像7月号) 「チパシリ」辻原登(文學界7月号) 「妬ましい」桑井朋子(文學界7月号) 「墓参記」桑井朋子(すばる7月号) 「てれんぱれん」青来有一(文學界7月号) 「スケネクタディ」新元良一(新潮7月号) です。 ・「インビテーション」は円城塔インタビューとJPOP連載です。 2007年 06月 14日
2007年 06月 14日
*「QJ」で連載していた「アナログ・バブルバス」の第一話「ブラック・スワン」を、連載中絶を記念(?)してアップします。全3回です。
(1) ブラック・スワンというのが、その映画の題名だった。 四未満から最初に聞かされた時は、正直ヒドいネーミングだと思ったが、口には出さなかった。しかも彼は、いかにも深そうで浅い意味ありげなタイトルの意味を、一度もちゃんと説明しようとはしなかった。たぶん出来なかったのではないかと思う。 それにその映画は結局、完成もしないままにどこかに消えたのだ。いや、完成寸前まではいった筈だったのだが、そのあと突然、どうかしてしまった。ブラック・スワンに関わった者の中で、現像されたフィルムを見たのは、監督本人を除けば僕と、当時四未満が付き合っていた(と当人が云っていた)T女子大の子ぐらいだったのではないか。あの文芸座の地下で、四未満は彼女のことを他の連中にスクリプターと紹介していて、編集作業も手伝わせる予定だと話していたのだから。もっとも現場で彼が用意してきた汚い手書きの絵コンテに則って撮影しつつ、同時に後でショットの順序がこんがらからないように大学ノートへ面倒だなと思いつつ逐一記録もしていたのはこの僕だったのだが。名前も忘れてしまったその女の子が実際に何をしていたのか、何かをしていたのかどうかさえ最早まったく記憶がない。背は高かったか低かったか普通だったか、眼鏡をかけていたのかどうか(四未満は眼鏡の女性が好きだった)、可愛かったのかそれほどでもなかったのか、まるきり覚えていないのだ。そしてそれを云うなら、そもそもあの映画にどんなショットがあったのかも、今となってはほとんど思い出せないのだ。覚えているのは薄暗い映画館の妙に埃臭い空気と、アリフレックスのひんやりとした感触と、ブラック・スワンという題名だけで、あとはすっかり消えてしまった。 四未満と書いてシイマダと読むのだと喫茶店で彼は自己紹介をした。だがシマダでいい、とも。こんな名字のせいで俺はずいぶん苦労をしてきた。中高と五段階評価の成績票に四未満すなわち三以下があることが判明すると必ず周囲に囃されるから、常に四もしくは五であることを強いられ、そしてその結果、元々そんなつもりはなかったのにこうして東京の大学に合格して今、お前と話しているのだ。という割には彼は一年浪人していた(ことがすぐに露見した)。四未満は奄美大島の出身だった。年中暑くて何もやる気が起こらず、何もやる気が起こらないことに慣れ切った奴らが実際何もせずに一生をあそこで過ごしているのだ。時間が止まっているとかいうけど止まってるのは時間じゃない。あそこで止まってるのは空間の方だ。とにかく動くものが何も見えないんだよ。完全に静止したままなんだ。ひとが居る場所でさえそうなんだ。だから俺はもう二度とあそこに戻るつもりはない。だからなりゆきとはいえ東京に出てこられてよかった。そう彼は力説した。僕もまた名古屋から上京してきたばかりだったが、四未満ほどの強烈な嫌悪や絶望が地元にあるわけもなく、むしろ彼が語る日本の外れの島に漂う無為の結晶化ともいうべき濃密で空疎なムードに、憧れにも似た空想を抱きもした。実現することはなかったが、いつかこの男と奄美を訪ねてみるのもいいかもしれないとさえ考えたりもしたのだ。 寺山修司と安部公房とデヴィッド・ボウイによって四未満と僕は意気投合したのだった。教室での立ち話から二人で喫茶店に流れて、それまでお互いの存在はなんとなく知っていたものの特に親しく言葉を交わすような仲ではなかったのに、その日は何か忘れてしまったきっかけからそんなことになり、ひたすら喋り続けて閉店まで粘ってそれから中村橋の僕のアパートで朝まで呑んだ。寺山はその年の春に亡くなっていたが、僕は天井桟敷の最終公演になった『レミング』をかろうじて観ていたので四未満に自慢した。名古屋の実家の本棚に『書を捨てよ町へ出よう』の文庫本があったので寺山修司という名前だけは幼い頃から知っていたが、背を眺めて内容を想像するだけでずっと読まずにいて、寺山の短歌も劇作もまったく知らなかったのに、高校二年の時に『田園に死す』をATG映画の特集上映で見て驚愕し、その頃までには図書館で借り出して戯曲集をおおかた読破していた。ちなみにこの時には鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』とか黒木和雄の『祭りの準備』とか大島渚の『儀式』なども一遍に見ていて、これらから受けたひとかたならぬショックが僕が東京に来た遠因のひとつであることはまちがいない。そもそも僕は映画を見るために/撮るために上京してきたのだったから。 というような話をこちらが意外に感じるほど興味深そうに聞いていた四未満は、やがて自分も映画を作るつもりだと宣言したのだった。そこで僕はすでに属していた映画サークルに彼を誘うことになる。四未満はいちおう所属はしたものの、ほとんどまともに活動することはないまま、幽霊部員のような立場で時折サークル部屋に現れては無給に近い現場の労働力を補充しに来ていた、仕出し屋のような先輩(しかしこの先輩は数年前にぴあフィルムフェスティバルで入賞を果たしたということでサークル内ではなかば神格化されていた。黒澤明を信奉するその先輩の「傑作」を僕も新歓上映会で見せられたのだが、観念的で文学的な、つまりは青臭い表現が大好きだった筈の当時の僕でさえ、あまりにもわけがわからなくてとてもついていけないと思ったものだ。しかしそれから十数年後、僕はこの先輩の名前を一世を風靡したアニメの脚本家として再び見ることになる)の手引きでピンク映画の照明スタッフの手伝いをするようになり、やがて学校にもまったく出てこなくなった。その頃には僕も授業には一切出なくなっていたが、四未満と違って僕は現場のバイトには一度きりしか行かなかった。代わりにサークルを拠点に8ミリ映画を長短併せて五本撮った。その中の一本、主演女優を共有する二本の映画の撮影が何故か同じスタジオで同時に行なわれていて、実は映画だけでなく二人の監督がその女性をめぐって恋の鞘当てを演じているらしきことが次第に分かってくるという作品で、四未満は最初からずっとその場に居たのにもかかわらず、一度も画面に登場することがなかったがゆえに観客の誰ひとりとしてその存在に最後の最後まで気付かない女優の恋人という役で出演している。しかし彼は自分では一本も8ミリを撮ることはなかった。最初から金を貯めて16ミリフィルムで作るつもりでいて、ブラック・スワンは彼の監督第一作になる予定だったのだ。 安部公房のベストは何といっても『砂の女』だよ、勅使河原の映画はちょっと描き過ぎだけどな、と四未満はやたら偉そうに云っていた。結論めいたことをいきなり、殊更に事もなげに言い放ちたがるのが彼のクセで、論証と呼べるようなものは殆どなくて単に好き嫌いだけのようにも思えたが、喋り方はどちらかと言うとモゴモゴと篭りがちでけっして聴き取り易くはないのに、中味は常に思い切りクリアカットな所は、確かめたわけではなかったが停止したままの空間から脱出を志す過程で後天的に修得した態度ではないかと思われた。何ごとにつけ、明確で明快に整理してみせるのがウケた時代でもあり、僕もまた、わからないことに惹かれながらも、わかったと思い込める機運は逃さないだけの若さは持ち合わせていた。そこで僕は返答した。『砂の女』は確かに傑作だが、一見地味な『燃えつきた地図』の方が実はずっとすごい。しかし安部公房でもしも一作だけ挙げるとするなら、自分は『箱男』と言うだろう。なぜなら、あの作品は小説というより一種の機械のようなものなんだ、そうまさしく、無数の歯車が収められた箱のようなもので、そのメカニズムはまるで永久機械のようにひたすら駆動しつつ、箱の外側にはまったく作用しないし、何も産み出さない。それはそれ自身を動かすだけのエネルギーを作っているのみなんだ。これってある意味途轍もなく贅沢なことじゃないか。ある意味、と、いかなる意味であるのかは一向に示さぬまましばしば口にするのが僕の癖で、それは今でも続いている。 四未満とは学内で顔を合わせることはほとんどなくなったが、代わりに月に一度か二度、僕は彼のアパートに泊まりに行くようになった。当時、彼は西武新宿線のずっと先の方に部屋を借りていて、終電が早いせいか新宿や馬場で呑んでいても落ち着かず、レコードを貸すからうちに来いと云い出すのだった。二、三回に一度くらいは同じくサークルで知り合った安本という男が一緒だった。安本は山川方夫のファンで、明らかに映画よりも文学を好んでいたし、そもそも映画の話をすることさえなく、なぜ映画のサークルに居たのかもよくわからない。当然のように四未満同様、サークルからはすぐに疎遠になってしまったのだが、なぜか僕が映画を作る時には必ず手伝うからと言ってくれていて、実際、何度か撮影に駆り出すことになった。そういえばある時、新宿の歩行者天国の日に、どちらもトレンチコート姿に黒いサングラスといういかにもないでたちの四未満と安本が、路上で女性を拉致する、という実に学生映画にありがちなシーンを撮ったことがあった。しかもそのシーンは辻褄も何もない完全な思いつきで、人々の怪訝な視線に耐えつつ何度も同じ仕草を繰り返させてフィルムに収めたあげく、結局はどこにも使わずに廃棄したのだった。四未満は普段は不遜な言動で売っている割にはシャイで、衆目を浴びて非常につらそうだったのに、安本は嬉々として悪漢を演じていた。 レコードを貸すとか言いながら、実際には僕が四未満に新しい音を聴かせることの方が多かったように思う。彼は『ジギー・スターダスト』を愛聴していて、繰り返し繰り返し針を落としていた。ダラダラ話しながらずっと何かをかけていて、しかし深夜というより明け方に近くなるといつも、なんだかジギーがまた聴きたくなってきたよ俺、どうしても一回聴かないと治まりそうにないわ、なんかさあ中毒みたいになる時ってない?、などとひとりごちながら、いそいそと盤を持ち出してくるのだった。4曲目の「スターマン」が流れ出すと、彼は常に完全に沈黙した。僕や安本にも発言を許さず、ボウイのエキセントリックな歌声にひたすら耳を傾けている。そしてレコードが終わると、われわれは眠りについた。 ブラック・スワンのことを最初に聞いたのも、そんな夜のことだったと思う。それは無謀な計画だった。どう考えても実現することはないと思えたが、四未満はしかし、かなりのところまではやってのけたのである。 2007年 06月 14日
(2)
話を続ける前に先回りして述べておく。四未満は、正確に言うと四未満のモデルとなった人物は(断っておくが彼の「本名」は「シマダ」ではない)、もうこの世にはいない。彼はあれから数年後に「事故」で亡くなった。そのすこし前に「四未満」は深夜に自宅アパートの上階から飛び降りて片足を骨折するという事件を起こしており、仕事を休んで療養中の間の出来事だったという。そういった一連の経緯を私は「安本」からの突然の、数年ぶりの電話で知った。通夜にも葬儀にも行かなかった。行けなかったのではなく、行かなかった。「事故」の詳細も知らないままだ。知りたいとは思わず、知ろうともしなかった。つまり私は「四未満」の死については何一つ語る術がなく、その資格もない。だからただ事実のみを記しておくことにする。 私はこの物語の中で、このあとも何人かの死者について書くだろう。しかしそれはいかなる意味でも追悼の為ではない。亡くなった人間への想いは、すべて生きている側の納得だ。死んでしまった者は過去にしか居ない。記憶を探ればそこには必ず何人かの死者たちが居る。それだけのことであり、それだけではないと思う錯誤から生き残った者の傲慢が始まる。それだけというわけにはいかないという傲慢から生き延びた者の錯誤が始まる。閑話休題。 驚いたのは、四未満がどうやってか池袋の文芸座と交渉して、地下の映画館を撮影のために半日借りる段取りをつけてきたことだった。上映終了後から翌朝までという徹夜コースではあったが、何ひとつ信用できる要素など無かったはずの彼が、よくOKしてもらえたものだと思う。もっとも四未満は目的のためには手段を選ばず、というか明白に強引な一種のヤマ師的属性があって、おそらく飛び込みであれこれウソ混じりに捲し立ててむりやり押し切ったのではないか。というのも何しろ、ブラック・スワンにはシナリオはおろかシノプシスの類いも企画書も存在しておらず、僕の知るかぎり数頁の殴り書きのメモと、断片的な絵コンテのようなものがあっただけだったからだ。つまりそもそもどんな映画であるのかも皆目不明で、それは文芸座の人にとっては当然そうだっただろうし、僕にとっても同じで、おそらく、というか今となっては確信を持って断言できることだが、四未満自身にもあの映画の全体像は最後まで見えていないままだったのだと思う。であるならばせめてもう少し中味を煮詰めてから現実の撮影に臨んだらよさそうなものだが、しかし思い立ったらすぐにやらないとどうしても気が済まないのが四未満の性分であって、自分の興味や熱意は一定時間以上持続しないということを彼はそれまでの二十年と少しの人生の中で既に学んできていた。不意に飽きちゃうのが怖いんだよと言いながら、実際このときも彼は結果的には中途で飽きてしまったのだった。 どうして映画館という特殊な空間が撮影場所に選ばれたのかといえば、それは人物の背景にスクリーンのような大きな白地の壁が欲しかったからということに尽きる。四未満は映画館の他にそういう場所を思いつかなかったのだ。彼のイメージにあったのは、よくあるプレーンな撮影スタジオのようなものだったと思うのだが(というのはその頃には彼はそうした商業スタジオでよくバイトをしていたから)、つまりはそうした所を借りれるだけの予算がなかったというだけで、その他の理由は何もなかった。いちおう折角だからという感じで客席の椅子の辺りでも何カットか撮ったりもしたが、それらは絵コンテもなくあからさまにその場の思いつきでしかなかった。 その夜に撮影されたのは時間にすれば全部併せてもせいぜいが三十数分くらいだったと思うが、ほとんどは何も映っていないスクリーンの前で黒ずくめの男がタバコを吹かしたりジッポのライターをいじったり、画面の右から左へ或いはその逆に何度も横切って歩いたり、カメラを見据えたり目を逸らして俯いたりするなどといった実に貧しい映像ばかりだった。ではなぜスクリーンが人物バックに必要だったのかというと、実はそれにも大した理由はないのだが、それはまた後で書くことにして、ブラック・スワン計画の端緒に立ち戻ることにしよう。 大学の映画研究会に籍を置き、ピンク映画の撮影や照明の技術スタッフとして仕事をするようになっていたとはいえ、僕の印象では、四未満は映画というメディアに対する思い入れらしきものは、どちらかといえば希薄だった。もちろん新旧の映画を人並み以上によく見てはいたし、自分で映画を撮ろうとまでしたのだから、好きだったことは間違いないが、だが彼は同時に小説らしきものを書いて何度か賞に応募したりもしていたし、高校までは油絵も描いていたといい、そういえば素人のレヴェルは明らかに超えた、かなり達者な筆致の劇画タッチの自作マンガを持ってきたこともあった。彼がいちばん好きなのは明らかに音楽だったが、ギターを少し弾けるだけで、バンドを組んだりしたこともなかったと思う。四未満は要するに何かを表現するひとになりたかったのだ。そしてそれによって他人からも評価され、しかもそれで食べていくことも出来るというのが彼の夢だった。そしてその手段は映画であっても小説であってもマンガであっても他の何かであってもおそらくよかったのだ。こう書くとまったくもってよくありがちな勘違いお芸術青年の夢想のように思えるかもしれないし、そしてそれは確かにある意味ではそうなのだが、当時の僕はそんな四未満の、いうなればクリエイティヴな初期衝動と人生における成功願望とが見事なまでに合致している様子に、羨望と違和感がないまぜになったような奇妙な魅力を感じることがあった。まずもって、それは自分には決定的に欠けている属性だと思えた。映画を見るために/撮るために東京にやってきたつもりでいて、実際に映画を見たり撮ったりすることだけで、ほぼ大学時代に相当する数年間を費やしてしまったとはいえ、それでも僕は映画が自分の一生の仕事になりうるなどとはやはり考えてはいなかったと思う。さりとて四未満のように他の表現手段にも手を染めたりしていたというのでもなければ、そもそもそんな欲望がなく、しかしごく普通の意味での就職ということも早い段階で諦めてしまっていた。醒めていたとかいうのでもなく、ただ毎日、いまだ誰でもない時期の誰しもが等しく持っている将来への不安の予感を無意識に先送りにして、映画館の暗がりに逃げ込んでいた。わずか数年後の自分の未来にさえリアリティのかけらも感じられないまま、つまりはなんにも考えていなかったのだ。そんな僕からしたら、四未満のめくるめく野心(?)は、それが傍目にも相当に空回りしているという意味では時として滑稽でもあったが、しかしこいつは今に突然ホームランを打つんじゃないかという根拠のない期待を一度も抱かなかったといえば嘘になる。それは期待ではなく不安だったのかもしれないが。 ブラック・スワンがリーズナブルな8ミリ・フィルムではなく、最初から16ミリという貧乏学生(既にほぼ学生でさえなかったのだが)には簡単に手が出せないスペックで製作されることになったのも、四未満の「野心」が作用していたのだと思う。彼は自分の映画を趣味の延長として考えてはいなかった。彼は本気で映画監督として「デビュー」するつもりで、ブラック・スワンを撮ろうとしたのだった。とはいえ、これまでに記してきたことだけでも、その意気込みと現実がほとんど繋がっていなかったことは火を見るよりも明らかではある。だが、ならば四未満とはただの無能な空想家に過ぎなかったのかといえば、それは絶対に違うと言い切れる。この点は非常に重要なことで、四未満の名誉のためにもここではっきりさせておきたいのだが、彼は僕がこれまでに出会ってきた中でも、際立って才気走った人間のひとりだった。彼は結局、彼がなりたかったであろう何者にもなることはなかったが、はなからなれなかったものだとは僕は思わない。それはただの結果だ。むろんその結果の残酷さを受け入れなくてはならないとはいえ。これはいま、あの頃を顧みて漸くわかった気がしているのだが、むしろ四未満は、その才気がひた走る速度と時間の流れがちぐはぐなだけだったのだと思う。彼は何かを思いつくと、そのありうべき結果がすぐに頭に浮かび、たちまち待ち切れなくなってしまい、あいだがスッポリと抜け落ちてしまうのだ。まるでタイムワープするみたいに。だから当然、結果は惨憺たるものになってしまうわけだが、もしもプロセスがちゃんと埋められていたなら、彼はきっと誰にも真似の出来ないようなものを造り上げたことだろう。これでは何の名誉回復にもなっていないかもしれないが、ともあれブラック・スワンはいわば、幻の傑作ならぬ傑作の幻となるべく運命づけられていた。四未満の才能(それは妄想とも言い換えられるものかもしれないが)は光の速さにも比するスピードで映画の完成までに必要な具体的時間をあっという間に通り過し、何も映っていない文芸座の真白なスクリーンにはブラック・スワンという題名の映画がすでに映写されていたのかもしれない。現実のあの夜の撮影は、だから四未満自身にとってはドップラー効果による残響のようなものだったのだ。 ところで四未満の無謀さは、当日、撮影技師の役職を仰せつかった僕が、しかし実は16ミリ・キャメラを操るのはまったく生まれて初めての経験だった、ということにも如実に現れていた。ちょっと細かい話になるが、当時の自主映画・個人映画の世界では、コマ撮りとか多重露光とか、キャメラ内でのテクニカルな操作に優れていたボレックスというキャメラに人気があり、僕も映画青年の例に漏れず、いつか16ミリを自分で撮るのならボレックスで、などと考えていた。だから四未満から16ミリ・キャメラを扱ってほしいと頼まれたときには、ならば是非ともボレックスをレンタルしてくれと希望を告げておいたのが、その夜に彼が運んできたのは、どちらかといえばよりプロ仕様のアリフレックスというキャメラだった。四未満が出入りしていた映像制作プロダクションの関係からアリの方が借りやすかったということだとは思うが、悪びれもせず「アリになっちゃったよ」と軽く云われて僕はかなり驚き、次いでガッカリした。そして内心、困り果てた。なにしろボレックスのことしか調べていなかったから。しかしそれでも無理矢理、僕はにわかディレクター・オブ・フォトグラフィーとして奮闘し、監督にして主演俳優でもある四未満の指揮のもと、明け方まで撮影は続いたのだった。 2007年 06月 14日
(3)
私が最後に「四未満」と会ったのは、まだ映画館で働いていた頃であったから、80年代の終わりくらいだったということになるだろうか。私は彼の正確な没年さえ記憶していない。もちろん少し調べたら分かることだが、このメモワールを書き出してから既に半年が経過しているというのに、一度もそうしようとはしなかった。これは彼のことに限らずのことではあるが、そしてそれはなぜなのかと問われたら長い長い返答を用意しなくてはならないのだが、いつのまにか自分は時間がもたらす忘却の作用に決して抗わないような生き方を選択してきたのだった。記憶が薄れる、というのはどういうことだろうか。私は「四未満」のことを、いつまで覚えているのだろう。いつまで?、どれほど?。いつから私は彼のことを忘れ始めたのだろうか。何から、どこから忘れ始めたのだろう。 しかしともかく最後の時のことはまだ覚えている。その日の勤務は遅番で、夕方に映画館に着くとメモが残っていて、開館まもない午前に私の友人だと名乗る男が訪ねてきたという。対応した同僚が出勤時間を伝えると、ではその頃にもういちど来てみるとだけ云い置いて、その人物は名前も言わず立ち去った。それが誰なのか私にはまったく見当が付かなかったのだが、ちょうどロードショーの最終回が始まる時間に合わせて「四未満」はふらりと現れた。その時点でおそらく一年近くは顔を合わせておらず、電話で話すこともほとんどなかったので、ずいぶんと久しぶりな気がした。しかし久々だからといって特別な用件がある風でもなく、映画館のチケットカウンター越しにこちらを覗き込んだ瞳も別段懐かしそうでもなくて、仕事が不意に飛んだから、ちょっと顔を出そうかと思って、とまるでふと思いついただけのように、彼は私を食事に誘った。そういう「四未満」の無軌道な振る舞いには学生時代に慣れっこになっていたから、私は彼の気紛れに付き合ってみようという気になり、休憩時間に彼と待ち合わせて、近くの中華料理店でラーメンを食べたのだった。 彼は大学を中退してから、映画の照明技師の助手をして生活していた(より正確に言えば、最初は撮影技師に附いていたのだが、理由は定かではないが程なくして照明に転身した)。とはいってもいわゆる本編の映画の仕事は滅多になく、彼の師匠の出自でもあったピンク映画がメインであり、時々もう少し大きな予算のロマンポルノや、ちょうど当時出てきたVシネマの類いの現場が舞い込むという程度で、他はカラオケのビデオや演歌や売れない歌謡曲のプロモフィルムといったところだったようだ。しかし受容はかなりあったようで、フルタイムで助手を始めてからさほど経たない間に彼は照明技師として一本立ちした。ちょうど浮き立つバブル景気の最中でもあり、典型的な貧乏学生のライフスタイルであった嘗てと較べたら、いまだそんな状況から抜け出せないままだった私からすると彼の羽振りはかなり良いように思えた。もしかするとそんな生活レベルのずれも、次第に疎遠になっていったことと関係していたのかもしれない。 近況を、というよりも、彼はついその前日に戻ってきたばかりの旅について語った。それは名前を出せば今でも多くの人が知っている筈の元アイドル歌手が主演する「セクシー・ビデオ」の撮影の仕事で、タヒチだったかに行ってきたという話だった。事務所の社長が、その娘とデキてるんだよ。ビデオなんて体の良い口実で、何もかもがそのふたりが浮気を楽しむためにセットアップされてるんだ。スタッフの全員が、もう末端も末端のADに至るまで、それを知っている。だってそのための、それだけのためのビデオなんだからさ結局は。でもそれは勿論、ないことになってるわけだ。だからすごく変だよ。滑稽というよりも気持ちが悪いよ。やる気をなくすとかじゃなくて、みんな最初からわかっててタヒチまで行ってるんだし、だからまあ相当に手を抜いても構わないし実際手抜きばかりになるわけだけど、やたら風景だけは綺麗でさ、太陽が凄くて、でもどんどん気持ちが悪くなってくるんだよね。 あまり具体的には話そうとはしなかったが、どうやら「四未満」は体調を崩し撮影を一日早く切り上げて帰国して来てしまったらしかった。大きく分ければ同じ「映画」の業界ということにはなるとはいえ、まったく異なった職種に就いていた私にはただ「大変なんだなあ」などと頷いてみせることくらいしか出来なかった。口ぶりには憂いや焦燥が滲み出ていたものの、暫くぶりに見た彼はむしろ以前よりも元気そうに見えた。もともと彫りの深い顔立ちではあったが(それは彼の出身とも関係があったのかもしれない)、タヒチ帰りということもあってか肌はかなり焼けており、艶艶と黒光りする顔の中で双つの眼球だけが妙に澄んだ輝きを湛えていて、表情にはうっすらと微笑が浮かんでさえいて、話の内容とは真逆に、快活で明朗な、いわゆるイケイケのヴァイタルな人物に変身してしまったようにさえ見えた。それが昔の彼の、口ではやたらとエネルギッシュに大仰な夢を語るが、それでいて表情はいつも奇妙な陰鬱さに覆われていた様子と対照的な気がして、そこで私はやっと、時が流れていたということに思い至ったのだった。 ラーメンをスープまで全て呑み切って、底に記された竜の絵をじっと見据えていた「四未満」は、まるで独り言のように、しかし私をまっすぐに見ながらこんなことを呟いた。「この店には赤いものが多過ぎるな。赤が多いのはよくない。赤がこんなにあるなら緑か黄を入れないとバランスが取れない」。それはあまりにも唐突で、私はすぐには返事が出来なかった。すると彼はひどく機嫌が良さそうに破顔し、続けて言った。「おかしなことを言うと思ってるだろう?。俺はおかしなことを言うようになったんだ。それは最近のことだが、俺はおかしいんだ」。なぜかはわからなかったが、私も一緒に笑っていた。「お前も俺がおかしいと思っただろう?」「ああ、お前はおかしい。気をつけたほうがいい」。薄ら寒いような、おそろしいような、哀しいような感じがしていた。しかし同時に、何でもないことのような気もした。われわれは再会を約して映画館の前で別れた。 これが「四未満」との最後の思い出である。 「ブラック・スワン」の撮影に僕か関わったのは、結局その一夜限りになった。半ば予想どおりだったが徹夜でやっても時間が足らなくなり、四未満は絵コンテを予定してきたカットを大幅に省略することを余儀なくされたが、特に残念そうでもなかった。寧ろかなり満足げで、映画の全容がまったく見えないまま、ひたすらこき使われた僕らスタッフの疲労をよそに、ひとり高揚していた。一応スクリプターということになっていたT女子大の女の子などは途中から明らかに撮影に興味を失って、後半はずっと客席の端の方で居眠りをしていたが、彼はまったく気にしていないようだった。その時点ではクランク・インということになっていた撮影はともあれ無事に終了し、僕は四未満と大戸屋で朝ご飯を食べて、下宿に帰って爆睡した。 さて、ここでなぜ撮影の際、背景に白いスクリーンが必要だったのかということの種明かしをしたいと思うのだが、そのためには記念すべき「ブラック・スワン」第一回(にして唯一の)撮影分の現像されたフィルムを見た時の話をするのが早い。それは池袋文芸座地下の夜から二週間ほど過ぎた頃だったと思う。四未満から電話があり、フィルムが上がってきたので見に来いと言う。そこで僕は西武新宿線の奥の駅にある彼のアパートを訪ねた。最初にも述べたが、T女の「スクリプター」の女の子も一緒だった筈だ。フィルムを見せる、とは言ったものの、それはちゃんと映写するということではなくて、文字通り、現像されたフィルムを見る、という会合だった。つまり四未満はわれわれの前にロールされたフィルムを置き、白い手袋をした指でそれを長々と引っぱり出して、幾つかのショットを1コマずつ開陳したのだった。 四未満扮する黒装束の男が一人芝居とも呼べないような単なる行為を何度も繰り返すさまが、そこには映っていた筈だ。それは16ミリフィルムのコマを灯りに透かして見ることでも確認できた。彼のバックは白く飛んでいて、まるで何もない画面の中で黒い人物が右往左往しているだけに見える。四未満は撮影時の興奮状態からは既に脱していて、いつもの雰囲気に戻っていたが、仕上がりは上々だ、よくやってくれたとカメラマンの僕を褒めてくれてから、近々に第二回の撮影に臨むつもりだと声高に述べ立てた。またスタジオを借りて、壁とかにこのフィルムを映写して、それに合わせてもうひとりの俺とヒロインとが芝居をするんだ。今度からは台詞もある。いま書いているところだが、大部分は映画や小説からの引用になるだろう。外の二人には映像の中の俺の姿が見えていない。ずっと無視して会話してる。けれどこの映画の主人公は映像の方の俺なんだ。しかしまずはヒロインを演じる女優を決定しなければならない。 実際のところ、四未満の構想はよくわからなかった。映像の中と外がどのように関係しているのか、関係ないのならどうして映像が必要なのか、いったいこの映画にストーリーと呼べるものはあるのか、そもそも「ブラック・スワン」とは何のことなのか、断片的にはあれこれ口にしていた筈だが、その全容はまるで掴めないままだったし、突っ込んだ質問を許さないムードがいつしか彼の周りには生じていた。それはアーティスティックな秘密主義のせいなどではなく、要するに本人もまだよく考えていないせいだということを、僕はとっくに勘づいていたが、だからこそ四未満に詳しく尋ねることができなかった。ともあれこの時点では、僕は当然その後の撮影にも自分が呼ばれるものだと思っていたし、どう考えてみても四未満もそのつもりだったのに違いない。 ところが、なぜかそうはならなかった。「ブラック・スワン」に関して、その後、四未満からの連絡はぱったりと途絶えた。その頃は僕もほとんど大学には行かないようになっていたので、彼と顔を合わせる機会は約束をしなければ偶然にどこかの映画館か上映会場で会うぐらいしかなく、おそらくそのようにしてすれ違ったことも何度かはあった筈だが、映画はどうなってるの?と訊いてみても、また連絡するわ、と答えるのみだった。僕としてはひょっとして早くも飽きてしまったのか、あるいは予測していなかった何らかの問題に遭遇して撮影自体が中絶を余儀なくされたか、そのいずれかだと思い、ちょうど自分も8ミリ映画を作っていて忙しくしていた時期でもあり、そのまま暫く放っておいたのだ。 「ブラック・スワン」の撮影が、僕の知らぬ間にその後も継続していたことを知ったのは、安本からの情報によってだった。安本は一度だけだが撮影を手伝ったという。それはしかし有栖川公園でひとりの女性が何者かから逃げるように疾走するという謎のシーンで、そんな場面のことは僕は一度も四未満からは聞かされていなかったし、その女優が誰なのか、ひょっとしたらあの「スクリプター」の子なのか、それとも前に言っていたヒロインが決定したのか、まるでわからなかった。反対に安本の方は、四未満から文芸座での撮影のことを全然聞いていなかった。もしかしたら別の映画なのではないかとも思ったが、安本も「ブラック・スワン」という題名は覚えていて、だとすればそれはやはり同じ映画だったのだろう。四未満は安本に対して、矢上は最近ひどく忙しいみたいだから、ちょっと助監督を頼みたい、と言ったそうだ。 どうして「ブラック・スワン」から僕が外されたのか、その理由を知ることはついぞなかった。四未満とはその後も付き合いが続いたが、この件については互いに話すことを忌避するようなムードが生まれていて、そのまま曖昧に忘れ去られていった。映画が完成しなかったことは間違いないと思う。もしも出来上がっていたら、さすがに僕にも知らされただろう。しかし四未満は安本に、あと一回か二回で撮影は全部終わる、と言ったそうだから、かなりの所までは進んでいたわけだ。それならば尚更に、なぜ完成に至らなかったのか、という疑問は残る。しかしこれはもはや誰にもわからない。その後、四未満はもちろん、安本も、他の友人たちも、この映画について何一つ話題にすることはなかった。それはつまり、最初からなかったのとほとんど同じことになったのだが、しかし確かにそれはあったのだ。 2007年 06月 06日
『文学賞メッタ斬り!2007年版 受賞作はありません編』(PARCO出版)刊行記念として、6月16日の夜に青山ブックセンター本店で行なわれるトークショーで、畏れ多くもお二人の聞き手を仰せつかりました。いやー正直アウェイ覚悟で参りますよ笑。何しろ豊崎さんとはNHK-BSの「週刊ブックレビュー」の収録の際に擦れ違いざまにご挨拶差し上げたのみ、大森さんに至っては未だ一面識もありません。なのになにゆえに僕のような者に白羽の矢が……それはナゾ。でも有象無象蠢くこの業界の中で、お二人は数少ない心底信頼できる書評家であるとかねてより思っておりました故、不束ながら精一杯、務めさせていただく所存です。楽しみだなあ。
詳しい情報はココです。 たぶんお二人の人気ぶりからしてすぐに席が埋まっちゃうと思うので、早めのご予約を。 大森望さんのホームページはココです。 http://www.ltokyo.com/ohmori/ 2007年 06月 05日
・下のエントリの次の回。「イズミズム」はこの後、予告通りには進まず、悩んだ末に連載8回目で中絶することになる。こないだの「LIFE」の「運動」の回には出演出来ず/睡魔にも勝てなかったので、まだ聴けていないのだが、僕なりのひとつの「運動」観を述べた文章としてアプしておきます。
ISMISM6 『ネオリベ化する公共圏』は、2005年12月20日に早稲田大学文学部キャンパスで起こった、いわゆる「ビラ撒き不当逮捕事件」に対する抗議運動から直接的に派生した論集で、同運動に実践的にも携わっている花咲政之輔とスガ秀実が編者を務めている。2001年のサークル地下部室強制撤去に端を発する、早稲田大における一連の出来事のドキュメントという側面のみならず、タイトルにも示されているように、より幅広い視点で、現在この国で進行する「ネオリベラリズム」的バイアスへの批判を試みたものと言える。酒井直樹やマイケル・ハート、宮沢章夫や松沢呉一といった方々が寄稿しており、ムック・サイズの本の厚みに比して内容はかなりヴァラエティに富んでいる(丸川哲史は何故昔の筆名で寄稿していて、プロフィールにも丸川としての記述がないのだろうか?)。だが、今回の眼目はこの論集の中味を吟味することにはない。こういう本は先の「事件」も「運動」もまだよく知らない人に読まれてこそポジティヴな意味を持つ。興味を抱いた人はぜひ手に取ってみてほしいと思う。 では何の話かといえば、実は僕もこの論集に原稿を書くことになっていたのだ。いや、実際に書いてもいたのだが、最後の最後で落としてしまったのである。元々は「不当逮捕」への反対アピールの署名がネットで募られていて、たまたま見つけて署名したのがきっかけで出版社の方から依頼を受けたのだった。時間的にもギリギリ(のギリ)までお待たせしたあげく、どうしても決心がつかず(どう「決心」がつかなかったのかは後で触れる)結局、脱稿を断念してしまった。メールを頂いた花咲氏を始め関係者諸氏にはご迷惑をお掛けして誠に申し訳なく思っている。にもかかわらず刊行の際には献本して下さった担当編集者の寛大さにもお礼申し上げたい(なんだか私信みたいですみません)。 当初の依頼は、いちおう僕の専門ということになっている音楽の世界に材を取って、今日的な「監視/管理社会化」への批判を、というようなことだったのだが、そういったテーマであれば僕よりもはるかに適任の書き手が存在しているのはあまりにも自明のことなので、僕としてはむしろ、そのような「批判」という事の成立の根拠を、原理的にというよりはどちらかといえば具体的に、問い直してみるようなものを書いてみようとしていたのだった。以下、幻に終わった文章のアウトラインを記してみたい。 本誌前号で僕は北沢夏音氏と小沢健二に関する対談をしたが、この文章もオザケンのことから始まることになっていた。インスト・アルバム『毎日の環境学』と、季刊誌『子どもと昔話』に連載中の長編創作童話「うさぎ!」は、ちょっと驚くほどあからさまに「反グローバリズム」を主題としている。対談でも話したことなので仔細は省略するが、僕はオザケンの政治的(?)主張それ自体よりも、彼が自作の音楽や書き物に込めた「メッセージ」の、ややこしい言い方になるが現し方と隠し方との些か不可解なアンバランスさに、とても興味をそそられた。 オザケンがやっていることは、ファンやシーンやメディアや社会に対する自らの発言力や影響力や煽動力を把握した上での、何らかの具体的な目的意識を持った行動とは明らかに一線を画している。ちゃんと読み解こうとすれば、そこに歴然と現れてくる筈の「メッセージ」の痛烈さからすると、それは奇妙なまでに控えめというか、はっきり言えば迂遠なのだ。しかしそれは、ごく単純に、伝わる人にだけ伝わればいい、というようなことでもない。闘うのなら、もっと思い切り誰にもわかるように拳を挙げてみせればよいのに、オザケンはそうはせず、だが戦略的に巧妙に主題を覆い隠すようなこともしない。見方によっては、このような彼の態度はどっちつかずに思えるのかもしれない。 ここに小沢健二というパーソナリティの(よくも悪くも?)特異なありようを見て取るのは、もちろん間違いではないだろう。だが僕には、彼のこのような屈折した(とやはり言うべきだろう)姿勢が、オザケンがそこに含まれる「世代」(ここには僕自身も含まれる)が多かれ少なかれ持っている、ある種の特徴をクリアに示しているように思えるのだ。 小沢健二は一九六八年(昭和四十三年)生まれである。ちなみに僕は一九六四年(昭和三十九年)生まれだ。四年の違いは決して無視出来るものではないし、東京に生まれ育ったオザケンと高校まで地方にいた僕をそのまま同列に並べることも出来ないとは思うが、話を円滑に進めるために僕自身の体験も交えながら語ってみることにする。 自分が学生時代を過ごした「八十年代」を思い返してみると、もちろん諸々の政治的な「運動」や「闘争」はあちこちで継続していたものの、大方の若者にとっては、それらはあまりピンと来るものではなかった、というか、ほとんどピンと来なかったのではないかと思う。僕もそうだった。世代的には僕らはいわゆる「シラケ世代」よりも更に少し下の世代に当たり、たとえば「ノンポリ」という言葉はまだ聞かれたりしたものの、概ね「ノンポリ」であることさえ意識することなく日々を送っていたというのが正直な所だった。高度経済成長からバブル期への途上にあって、僕らは消費社会と情報化とプレ・オタク的サブカルチャーの爛熟を満喫していた(僕はかなり貧乏だったけれど)。この時期、いかなる意味であれポリティカルであることは、端的にダサいことだったのだ。 しかし、残念ながら(?)そのままではありえなかったことは今や周知のとおりである。「九十年代」の到来と併せて世界は変わった。バブルが弾けて、長い長いドローンのような不況が始まった。「八十年代」を代表する知識人たちの多くはいわゆる「ポストモダンの左旋回」(仲正昌樹)を果たし、相変わらず自分たちは安全圏に置いたままで、ポリティカリー・コレクトなスタンス(やPCにクリティカルなフリをするスタンス?)を打ち出した。しかし、彼らのようにではなくても、僕らの世代の幾らかの者たちは、かつての自分があまりにも無自覚な「ノンポリ」であったことに恥じ入り、少なくとも、世界や社会がどういうことになっているのかぐらいは、自分なりに考えようとするようになっていった。 だが率直に言って、それでも僕らは、上の世代のように、なにがしかの「運動」が世界を変革し得る(かもしれない)などという希望を新たに抱くことは出来なかったのではなかったか。少なくとも僕はそうだった。昭和三十年代生まれの最後に引っかかっている僕の個人的な記憶としては、自分より四,五歳くらい上、僕が大学一年の時に五年や六年(!)だった先輩たちの何人かは、「シラケ世代」と言われつつも、まだ(特定のセクトに属しているということではなくても)「運動」との実際的な関わりや、そうでなくても「運動」に対するある種の憧憬を保持している人がいた。けれども僕は、彼らの話を聞きながら、どこか他人事のような、なんだか絵空事を聞いているような感じを拭えなかった。その感じは「九十年代」になっても持続していた。結果として僕らは、いや僕は、個人主義、孤立主義を身に纏い、従来の「運動」や「連帯」とは別種の、敢て言うなら「政治性」を模索するようになっていったのだった。 だからこそ(と言うのも唐突だが)、僕にはオザケンのパラドキシカルな態度が、不可解とは書いたけれども、ある意味ではとてもよく理解出来るのだ。何と言うか、僕らの世代は、たぶんどうしてもこんな風になってしまうのである。簡潔に述べてみるなら、自らのアクションが他者の動員を孕む「運動」に相即的に結びつくことへの躊躇と異和が、ここには覗いている。そのことを怖れているというのではなくて、そのことに本当に意味があるのかどうかが、どうにもよくわからない、ということなのである。 もちろん、安易な世代論は慎むべきではある。だが僕が言いたいのは、実は現在の「運動」についてなのだ。「9.11」以降、この国でも様々な形態での「運動」が、少なくとも以前よりは色々な点で目立った形で行なわれているように見える。ところが、僕の知る限りにおいて、ではあるが、幾つかの「運動」の主体的な担い手は、僕と同じくらいの年齢か、それよりも上の世代の者、すなわち四十代以上か、せいぜいが三十代後半一一この世代は種々のメディアで責任ある立場に居る場合が多い一一と、二十代(もしくは十代)の下手をすると一回りほども若い世代が大勢を占めていて、つまりは現在、三十代の人たちが、層としてはゴッソリ抜け落ちているように思えるのだ。この層とはつまり、小沢健二が属している世代である。 僕自身は、年齢的には「運動」の担い手たちとも近いが、メンタリティとしては、完全に「運動」に乗れていない層と同じだと思っている。本誌の昔の連載、今は『ソフトアンドハード』に収録されている幾つかの文章を読んでもらえば分かるが、僕は過去数年の間に立ち上がった幾つかの「運動」に対して、基本的にかなり懐疑的だ。それは「運動」というよりも一種の「表現」なのではないか、というのが、僕の懐疑の焦点である。だが、そこに行くのはまだ早い。 粗雑さを承知で括るなら、要するに、「運動」というものに「希望」を持ったままでいられた世代と、「運動」への「絶望」に対して無垢な世代とが、現在形の「運動」を支えているのではないだろうか。その間に位置している、「運動」へのアンビヴァレントな懐疑をなかば無意識的に体得してしまった世代は、そこから取り残されたままでいる。その世代が、それでも自発的に何事かをしようとすると、オザケンのように、何だかよくわからないものになってしまったりする。良い悪いではなく、僕にはこのことが、ほとんど(僕らの!)宿命のようなものとして映るのである。 若者の右傾化を憂う論調が、左翼的論壇(?)からよく聞かれもする昨今だが、実はそういうことではなくて、むしろ左右の違いを超えて、「運動」的なるものへの親和性(それはナイーヴとも言う)を、若い世代がより多く持っている、ということなのではないか。そして僕が疑いを抱き、それだけでなく思わず“引いて”しまうのは、ある具体的なひとつの「運動」の現場において、それを企図し統括する側である上の世代の者たちが、ナイーヴであるがゆえに「運動」へと動員されやすい若い世代を、真の理解に裏打ちされた、いうなれば「同志」として育成するということと、現実的な示威行為での実弾的な「数」としてのみ消費することを、ほとんど区別していない、区別出来ていないのではないか、と思えることがあるからなのである。 たとえばデモをするのならば、群れ集って騒ぎながら練り歩くことの紛れもない愉しさや充実感(僕はそのどちらも感じませんが)と、そこで掲げられているデモンストレーションの中味への真摯なシンパシーは、僕はやはり出来得る限り一致させるべくどこかで努めるべきだと思うのだが、往々にして、多少とも繊細さや細心さを必要とする筈のそうした配慮よりも、デモとしての具体的な強度だけが重要視されがちであり、つまりはとにかく何でもいいから人を沢山集めればいいのだ、そして皆で一緒に声を挙げればいいのだ、まずは何より実践なのだ、という短絡に陥りがちなのではないか。しかしそれでは、あなたたちが嫌いな現首相とその政党がしていることと、いったいどこがどう違うというのか?。啓蒙と刷り込みはまったく違うことだし、オルグと動員も全然違う筈だ。では、現在の「運動」が身に纏っているのは前者だろうか後者だろうか。 しかし、もっと本質的にマズいことだと思えるのは、無理矢理にであれ惹起されたあるひとつの「運動」が、現実的な意味で、撃つべき敵に対して幾らかの脅威足り得るのならばまだしも、残念なことに(と取りあえず書いておくが)おそらくほとんどそうではなくて、ともすれば、結果はどうであれ、我々はやるだけのことはやったのだ、という奇怪な納得で終わってしまうことが少なくないのではないか、ということなのである。もちろん、何もかもがあらかじめそんなことであると言ってのけるつもりは毛頭ないけれど、しかし僕はやはり、あらゆる「運動」は、何らかのレヴェルでの実効性と切っても切れないものであろうとしなくてはならない、と考える。なのにまるで正反対に、ほとんど実効性の不在を隠れた本質として持っているような「運動」というものがありはしまいか。それは大文字の「運動」ではなく、いわば小文字の「行動」の蕩尽なのであり、要するに多かれ少なかれ自己の存在証明の一種としての、そう、つまりは「表現」なのではないか…… ……というように、そもそものオーダーとしては「現在」に対する「批判」としての「運動」を論じる筈の文章は、なぜか「現在」の「運動」に対する「批判」のようなものへと、あれよあれよという間に転じてしまい、収拾がつかなくなってしまった。いや、それでもとりあえず最後まで書くことは可能だったのかもしれないし、そうすべきであったのだとも思うのだが、僕にはどうしても脱稿することが出来なかった。しかしそれは、『ネオリベ化する公共圏』のような論集に、こんなことがダラダラ書いてある文章が紛れ込んでいたらどうなるのか?という心配(?)によるものではなく(それも確かにありましたが)、ならば一体どうしたらいいのか?、という次なる問いに、僕自身が答えられる用意がなかったからなのだ。 実際のところ、考えれば考えるほど、この問いに答えようとすることは、非常に非常にむつかしい。なぜなら(誤解を恐れずに書いてみることにするが)、今となっては、過去のありとあらゆる「運動」も、結局は「表現」として在ったのではないのか、という疑念(?)が、ほとんど背筋が寒くなるような感覚とともに、僕の中に生じてしまっているからだ。つまり、僕の捉え方の方がおかしいのであって、根本的に「運動」というものは、いわば「実存」の問題に還元されるものなのだ、と。 いや、もちろんそれはもとよりそうなのだ。あらゆる「運動」的なるものが「自己表現」のモメントを潜在させていることは、むしろ当然のことではある。それは人間の能動的な営みの大方がそうであるのと同じ理由で、そうなのだ。けれども、そうであるしかないこととしてそうなのだと認めることと、そうであることを自覚しつつそうであることに甘んじるのとでは、決定的な違いがある。「運動」は「表現」でもある、と客観的に述べることと、「運動」は「表現」でいいのだ、と開き直ることは、同じことではない。遊戯的(むろん真剣な遊戯だってある)な「運動=表現」が、その者の死に至ったとして、たとえそれが「実存」としての生を貫徹し得たのだと言えたとしても、それが僅かでも実効的な結果と結び付いていなければ、その者は単に犬死にでしかない、と僕は考える。だが、このような考え方が、僕なら僕の具体的な「運動」への投企をあらかじめ阻害しているのだということも、おそらく確かなことではあるのだ。それに、逆に「表現」としての「運動」が、何事かをなし得ることだってあり得る。だから、やらないよりはやったほうが、やはりましだとは言えるのではないか。しかし、しかしだよ……。 『ネオリベ化する公共圏』の編者のひとりであるスガ秀実氏には、『革命的な、あまりに革命的な』という著書がある。副題は『「1968年の革命」史論』ではあるが、あまりに、ではあれ、「革命」ではなく「革命“的”」であるということの意味を、僕はどうしても考えてしまう。そしてまた、ある理由で完成前の段階で見ることが出来た、足立正生監督の映画『幽閉者(テロリスト)』から受けた衝撃が、僕の混乱に追い打ちをかけたのだったが、この話は次回以降に取っておくことにする。 前号の最後で僕は「今や誰もが、自分の言葉が通じる相手にだけ話しかけているように、僕には思える。何か重要なことを伝えようとしているように見える場所であればあるほど、そう思えてならない」と書いた。今回は、その続きのつもりで書き出したのだった。だが結果としては、こんな内容になってしまった。いや、それでも実は、これはやはり「続き」であったのかもしれない。 2007年 06月 05日
・前ブログでもアップしてあったのだが、唐沢本を読んで思い出したので、参考までにこちらにもコピペしておきます。
ISMISM5 『UFOとポストモダン』はとても面白い本だった。著者の木原善彦氏のことはウィリアム・ギャディスの唯一の訳書『カーペンターズ・ゴシック』や『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』の翻訳家として、またトマス・ピンチョンの非常によく出来た研究書の著者として知ってはいたが、こういう本も書ける人だとは思わなかった。いわゆる「UFO=未確認飛行物体」と「エイリアン=宇宙人」にまつわる夥しい現象と言説の歴史的変遷を辿りつつ、両者を一種の「文化的イコン」として捉えることで、題名にもあるように「ポストモダン」の大衆的な(無)意識の変容を析出しようというのが、この本の狙いで、いってみれば人文科学方向から取り組んだ「トンデモ批判」(参考文献に「と学会」の本も挙げられている)というべきものとなっている。 なるほどこの手があったのかーと思わず唸ったのは、数多のポストモダン論の類いが、どうもなかなか「海外(たとえば米国)」と「日本」との社会的・文化的コンテクストの違い(と同質性)を上手く処理できていないように見える(従って我が国の「ポストモダン論」はどうしてもドメスティックな偏りを纏ってしまいがちだ)のに対して、ここではUFO/エイリアン神話の受容というファクターによって、その点がかなり巧妙に説明されていると思えるからだ。しかし今回の話は、そういう方向とはちょっと違う。 木原氏は、大澤真幸や東浩紀のポストモダン論に依拠しつつも、随所に独自の視点を導入している。よく知られているように、大澤氏が『虚構の時代の果て』で提示した、「理想の時代」(第二次大戦後から連合赤軍事件まで)と「虚構の時代」(地下鉄サリン事件まで)という時代区分を受けて、東氏はそれ以降を「動物の時代」(『動物化するポストモダン』)と名付け、更にそれを大澤氏は「不可能性の時代」と命名し直してみせた(『現実の向こう』)。これに対して、木原氏は「動物/不可能性の時代」は、より端的かつ直截に「現実の時代」と呼ぶ方がいいのではないかと述べている。しかし、その「現実」は「不可能性/動物/現実の時代」以前のそれとは、かなり異なっている。 ただし重要なのは、「現実の時代」と言うときの現実とは、皆が一致して認めるようなただ一つの「大文字の現実」と呼べるようなものとは異なり、複数存在しうるもの、「一つの現実と別の現実」「私の現実と他者の現実」という対立で考えられるものだということです。少しあか抜けない言い方をするなら、「諸現実の時代」と呼んでもいいでしょう。以前は大方の人の意見が一致する「現実」が存在して、その対立項として「理想」や「虚構」がありました。ところが現在は現実そのもののとらえ方が多様化していて、かつ、それが異常な事態とみなされるのではなく、当たり前のこととなってきています。 『UFOとポストモダン』、P186-187 これは重要な指摘だと思う。というのは、ここで言われているのは、揺るぎない確固とした、ただ一つの「現実」がどこかに(ここに)存在していて、しかしその捉え方、見方は各人各様だ、ということではなくて、もはや「現実」そのものが多様化/複数化している、ということだからだ。この違いは一見、些細なレトリックに過ぎないようだが、実は決定的だ。なぜならこれは、すでに「現実」など存在していない、ということと、ほとんど同じことであるからだ。 以前なら、一般的に前提される、ある一つの「現実」に対して複数の「個人的価値観」が存在していましたが、現在はそれとは逆に、「個人的価値観」に基づいて各人が自分の好きな「現実」を選び取っていると言えるかもしれません。 前掲書、P187 というわけで、UFOやエイリアンを信じたい者(ビリーヴァー)は、どれほどより信じるに足る実証的なデータによって否定されようとも、いかにロジカルに完膚なきまでに論駁されようとも、むしろそれゆえにこそ、いつまでも/どこまでも、それを信じ続けることが可能となる。それはつまり「それはウソだ」というのが本当はウソなのだ、と考えることの「自由」が、底抜けに保証されてしまっている、ということだ。あからさまに虚偽でさえある「現実」の否定の否定が、常に可能であるということ。 では,何故そんなことが可能なのか、そのような「自由」を保証しているのは、一体何なのか。『UFOとポストモダン』を読みながら、ふと僕が思い出したのは、斎藤美奈子との書評対談の中で高橋源一郎が語っていた、次のようなくだりだった。 高橋「でも怖いよね。まず好き嫌いっていうエモーションがあって、それを支えるために無限に情報を持ってくる。でも集めるのは自分の好きな情報だけで、それで殲滅戦になる。(中略)で、根本には〈本当のことはどこかにある〉っていう確信があるわけ。どっちにもないかもしれないよ(笑)」 「日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2006」、P18 論議されているのは、ちょっと前にベストセラーになった、ある本についてなのだが、そのことはとりあえず省く(ウザいので)。ここで高橋氏が言っているのは、もちろんインターネットのことだ。「諸現実の時代」は、明らかに「ネットの時代」の別名である。膨大に、ほぼ無限に蓄積された、そしてしかも刻々と増え続けるネット上のデータからは、いかなる判断をも引き出すことが出来る。高橋氏の発言を敷衍するならば、更に厄介なのは、特に「まず好き嫌いっていうエモーション」があるわけでなくとも、検索とリンクとコメントとトラックバックの、あくまでも偶然的でしかない経路が、ある人間のある事象に関しての「好き嫌い」を、操作主抜きに操作し誘導し決定してしまうことが起こり得る、ということだ。そして、そのようにして偶々齎された「判断」を、どこまでも強化してくれるデータのバッファが、ネットには有る、ということだ。しかもそれは〈本当のことはどこかにある〉という根拠のない確信と裏腹になっている。 それだけではない。インターネットのもうひとつの特徴である「ヴァーチャル性」もまた、この「好き嫌い」の「強化」に貢献している。和田伸一郎は『メディアと倫理』で、「画面」という解読格子を通して、独自の「メディア批判」を展開している。テレビ、映画に続いて、この本の後半ではネットでのいわゆる「叩き」の問題が取り上げられているのだが、「インターネットではなぜ人はかくも卑劣になれるのか」と題されたこの章(第三章)は、示唆に富んでいる。たとえば和田氏は、イラク戦争人質事件における「自己責任」論の噴き上がりに関連して、もしもメディアの報道を介してではなく、目の前で実際に人質が殺されようとしていたのだとしたら、それでもなお「自業自得だ、死んで当然だ」と口にできるだろうか、と問いかけ、続いて次のように述べている。 つまり、ここで言いたいのは、この誹謗中傷という卑劣な行動は、退きこもった〈個室〉からなされているからこそ、その行動の主体はリスクを冒すことを免れ、その行動の責任を負わず、罪悪感を感じずに済んでいるが、もし〈個室〉に保護されないならば、この主体はこのような見物の場面でなされることと同じことをしているという想像力が一部のネット利用者には決定的に欠けているのではないかということである。 とはいえ、これは一部のネット利用者が悪い人間だから,そうした想像力が欠けているということではない。こうした事態が生じるのは、インターネットの画面とそれが見られる〈個室〉が相互に補完しあう中で気づかれずに進行する世界から退きこもる運動に利用者が身を任せることの一つの帰結にすぎない。 『メディアと倫理』、P157-158 和田氏の語調論調は、ほとんど激烈と言ってもいいほどで、この種の本としては例外的なほどの(取り方によっては些か不可解でさえある)熱を帯びているのだが、ここで言われていることは要するに、インターネットが仮構するヴァーチャルな公共性が、かえって従来の真正の「公共性」の崩壊を促している、ということだ。そこでは誰もが限りなく「無責任」でありえるからこそ,「他者」の「責任」を安易に要求出来てしまう。 したがって問題なのは、主体的に誰かを中傷したその個人の人格ではなく、中傷しても何も罪悪感を感じずに済むような空間が〈組み立て〉られ、誰もが簡単にそのような空間の住人になることができる環境こそが問題なのである。特定の人格を持った「個人」という確固とした枠組みは、すべての人間が等しく属すことができるこのような〈非人称的〉な空間に帰属するやいなや溶解してしまう(「匿名性」は、まだこの「個人」という枠組みに縛られている)。 前掲書、P159-160 ここまではっきり言われると、意見が分かれるかもしれない。がしかし、ネット上の倫理学が立ち上げられなくてはならないという問題提起については、その通りだと思う。それがいかにして可能なのかは、今の所はまだ見当が付かないとしても(この点についての和田氏の論議はとても誠実なものではあるが、必ずしも成功していないように僕には思える)。 とはいえ、僕は画一的なネット批判を今更したいわけでは全くない。けれども、僕にとってインターネットとは、あくまでも様々な「未知との遭遇」のためのツールのひとつであり、その意味では大いに役立っているのだが、しかしある種の(もしかしたら大多数の?)人々にとっては、それが真逆の「既知の確認」「未知への鈍感」のためにしか機能して/利用されていないようであることには、いささかうんざりせざるを得ない。残念なことに、それは現在,色々な局面で見られる、「他者」への寛容さの不在ぶりと、どこかで繋がっているように思えてしまうからだ。 中原昌也と高橋ヨシキの非オタク二名が、海猫沢めろんと更科修一郎から「オタク」のメンタリティについて話を聞く、という趣向の『嫌オタク流』は、表向き(?)よりもずっと深い内容の本で、読みながら頷くことしきりだったのだが、引用したい所は多々あるけれど、もっともブンブン首肯したのは、以下の部分だった。 中原 (前略)身のまわりを自分の好きなものだけで固めて、それで何とかなってしまう状況は耐えられないし、本当に嫌いですね。単なる感情論でしかないけど、それで世の中が面白くはならないもん。 高橋 今はひとつの映画なり小説なりの中に自分が好きじゃない要素が入ってくるだけで観客や読者に拒まれるから。 更科 作品を「教養」じゃなくて「ツール」として捉えてますね。「泣きたいときはこのアニメ」、「オナニーするときはこのゲーム」みたいな。作品が総合薬ではなくてサプリメント化していると言いますか。 中原 その問題って、結局は今の世の中のダメな部分すべてに影響していて、たとえば『映画秘宝』編集部に届いた読者からの感想で一番笑ったのが、「自分の知っていること以外はつまらなかったです」という批判。 『嫌オタク流』、P190 この「自分の知っていること以外はつまらない」という感覚が暗黙に前提していて、しかし、どうしてだか忘却してしまっているのは、では自分はどうやってそれを知るに至ったのか、ということだ。「知っていること」も「知らないこと」だった時期が当然あるわけで、それをどんどん遡っていけば、やがては「知る」ということの端緒に辿り着く筈なのに、ひとはいつしかそれを忘れてしまう。そして、「知っていることしか好きじゃない」と「好きなことしか知りたくない」は、どっちがどっちか分からなくなり、「知らないこと」がイコール「嫌いなこと」へと短絡してしまうのだ。 『嫌オタク流』は文字通り「オタク批判」の書なのだが、しかしそこで語られていることは、必ずしもいわゆる「オタク」の方々のみに限定的に妥当するものではない。むしろ問題は、もっとずっと根深い。 中原 結局、オタクの立脚しているメンタリティって一般人のメンタリティとまったく同じで、僕はそこに憤りを感じるんですよ。(中略)ノイズを排除せずに毎日を送っていかなきゃ絶対にダメだし、ものすごくきれいごとを言っちゃうと、異物(ノイズ)を受け入れる姿勢がない限り、世界平和は絶対にありえないんですよ。オタクの人たちはみんな異物に関しては頑なでしょう? そのメンタリティは一般人とまったく同じなんですよ。 前掲書、P191 中原君の主張(!)に、僕は100%同意する。これはけっして「オタク」や「一般人」に対する勝手な決めつけなどではない。こんな言い方があからさまにステレオタイプ的であることは彼は百も承知だろう。彼が憂えているのは、つまりはUNKNOWNなるものへの感受性の摩耗が、不気味なほどに蔓延している、ということなのだ。 と、書きながら思ったのだが、いま述べつつあることって、かなり昔に、この連載の前身(正確には前身の前身)で何度か書いたことと、ほとんど変わっていない(苦笑)。たとえば現在は『ソフトアンドハード』に収録されている「UNKNOWNはMIXされたか?、あるいは楕円の両端について」とか。その文章を書いたのは2002年のことで、もう四年も前のことなのだが、僕が進歩していないということもあるだろうが、非常に残念なことに、事態はそれ以後、もっと悪化の一途を辿ってしまったような気がするのだ。 更科 誰だって若い頃は面白そうだと思ったもの全部に手を出して、そのおかげでワケの分からないことになったりすると思うんですけどね。 中原 でも、今、そういう情報自体が少ないし、何も僕はマニュアルやカタログ自体が悪いとまでは言いませんけど、もう少し自分のアタマで考えたりとかすればいいのにねえ。でも、確かにそれは辛いことなんだよね。誰とも共有できない行為だから。 高橋 誰が助けてくれるわけでもないし。 中原 それは本当に辛いことだから誰もそんなことはしたくないんだね。 更科 早いうちに徒党を組んでおきたい、という話ですよ。 中原 ああ嫌だ嫌だ。 同前、P202 信じていることしか信じたいと思わず、知っていることしか知りたいと思わず、信じられないことと知らないことを意識的無意識的に排除して、そうやって「自分の現実」を拵えることが、極めて能率的に出来てしまう世界に、僕たちは生きている。 しかし、ほんとうにアタマが痛いのは、たとえば『嫌オタク流』にしても、そこで真の意味で批判されている人々(繰り返すが、それは「オタク」だけではない)は、おそらく最初からこの本を開くことさえないだろうし、仮に偶々読んでしまったとしても、そこには嫌悪と反撥しか生まれないのではないか、と思えてしまうことだ。そしてまた同時に、この本を読んで「そーそーオタクってキモいよな!」とか言って溜飲を下げる人こそが、実は批判されるべき人種と同質であるにもかかわらず、彼らはそのことに気付かないし、気付かなくてもいいようになっている、ということなのだ。 また救いのないことばかり書いて…という声が聞こえてきそうだが、しかし思うに、このような、いわば価値観のセグメンテーションは、今ではほとんど後戻りが難しいほどに進行していて、だから実際のところは、ここで僕がこんなことを書いていることさえも、どの程度の意味(意義)があるのかよく分からない、というのが正直な感慨で、それがつまりは、実を言えば前号で連載を休ませてもらった、ひとつの理由だったのだ。 今や誰もが、自分の言葉が通じる相手にだけ話しかけているように、僕には思える。何か重要なことを伝えようとしているように見える場所であればあるほど、そう思えてならない。残された選択はといえば、それでもいいや、分かってくれてる(ように思える)人はまだいるんだし、と、ある意味開き直るか(しかしそれはそのまま「ミイラ取りがミイラになる」ことを意味する)、でなければ、もう単に降りる、しかない。かくして「オタク」すなわち「自分(たち)ビリーヴァー」は勝利する、というわけだ。 では、どうしたらいいのか?……もっとよく考えてみなくてはならない。 < 前のページ次のページ >
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