How It Is:THOUGHT
2007-04-06T10:46:32+09:00
ATSAS
佐々木敦の批評ブログ
Excite Blog
Grip the Gap
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2007-04-04T18:36:00+09:00
2007-04-06T10:46:32+09:00
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ATSAS
THOUGHT
僕が参加したのは2003年の「Grip the Gap」という企画展だが、非売品のようなので、カタログに掲載されたレクチャーの採録を以下にアップしておく。
「神戸アートアニュアル2003 Grip the Gap 」
ゲストトーク
佐々木 敦
11月8日(土)17:30〜 佐々木敦(批評家)
■音という物理現象/音楽から見た「Grip the Gap」
美術の展覧会にこういう形でトークに呼んで頂いたのは初めてなので、最初はちょっとした戸惑いのようなものがありました。ところが「Grip the Gap」という展覧会タイトルと、その説明を踏まえながら作品を見てみたら、僕に声が掛かった理由が自分なりに理解できた気がしたのです。事前に出品作家のインタビュー映像を拝見したのですが、皆さんがそれぞれに「美術とは何か?」という問いを持ってらっしゃるような印象がありました。美術という概念は何か確固たる内容を持っていると言うよりも、誰かが何らかの理由付けをもって「これは美術だ」という風に名指した途端に、美術になるんじゃないかと思うんです。そう考えることが可能なぐらい、美術という概念が拡張してきた歴史があると思うんですね。
音楽と美術を比較した時に決定的に違うのは、音楽の場合は音という現象や、聴くという具体的な行為が関与していないと、やっぱり音楽、音にはならない。美術の場合は、たとえばコンセプチュアル・アートのように。ある概念やアイデア自体をアートと呼ぶこともあると思うんですけど、音楽の場合、音自体は空気中の物理的な振動現象なので、何も聴こえていないのに何かを指して「これは音楽だ」というのは、もしあったとしても一種の比喩的な表現に過ぎない。まず聴取が可能であるということが音楽の第一条件だと言えます。
まず聴取が具体的・物理的に可能だったとしても、つぎに音楽と単なる音との境界線を定義するのは、実はかなり難しい問題です。誰かが聴いて「こんなのは音楽じゃない」と思ったとしても、別の誰かにとっては「音楽」として鑑賞できたりもする。もちろん、自分自身の耳で判断して音楽かそうでないかを確定するのは大切なことですが、同じひとの耳でも時間とともに変化してゆくことがあるかもしれない。以前は到底、音楽とは認められなかったような音が、ある時とつぜん、音楽的に聴こえ始めるということだってありえる。
つまり、音と音楽の隙間の部分をどう埋めてゆくのか、ということです。これはまさに「Grip the Gap」と言うことなんじゃないかと思ったのです。そこで、一聴するかぎりでは多くの人にとって音楽とは思えないかもしれないような音による表現をいくつかご紹介してみたいと思います。
■ 固定概念を取り払う/ヴォイス・クラック
ノルベルト・メスラングとアンディ・グールというスイス人の二人組からなるヴォイス・クラックは、最近アートの方でもインスタレーションとかを始めてるんですが、元々はジャズの演奏家で、デュオとして演奏をしていました。ところがある時から電気製品の廃品を集めてきて自分たちで勝手に改造して音が出る機械を作り、「クラックド・エブリデイ・エレクトロニクス」と彼らは呼んでいるんですが、その他には楽器と呼ばれるものは一切使わないで演奏をすることを始めました。
そういうものだから、とにかく音を出してみるまでは、どんなサウンドか事前にはわかりません。つまり普通に楽器を用いて行なわれるような作曲や演奏が、あらかじめ不可能になってしまっている。まずマシンが予想もしなかったような音を発して、それからそれをどう料理するかを考える。そしてその音を音楽として演奏することを試みる。彼らはいわば毎回楽器を発明し直しているようなものであって、そこがすごくユニークだと思います。音楽は楽器でやるものという固定概念をひとたび完全に取り払ってしまうと、音の持っている可能性は非常に幅広くなってくるんですね。
■音楽と音の間/アニミスト・オーケストラ
アメリカのアニミスト・オーケストラは、楽器や音を出すための道具を使わずに、木や小枝や草や小石などといった自然物を拾ってきて、それらを触れ合わせたり擦ったりといった行為によって音を発して、一種の合奏を行ないます。カーペットが敷いてある広い空間に自然界のオブジェを並べて、みんなでいじって、その音をマイクで拾って、ライヴ・レコーディングするわけです。似たようなことをやっている人は結構多いのですが、10人以上のオーケストラで、定期的にパフォーマンスをやっていて、CDまで出しちゃったと言うケースは彼らくらいですね。しかもちゃんと独自に考案したスコアもあるんです。
ひとつ思うのは、このCDを何も説明を受けずにただ音だけ聴いたとしたら、何がなんだか分からないだろうと思うんですね。どうやって音を出してるのかさえ分からない。写真を見たり説明を読めばある程度理解できるけれど、そうしたものから切り離されて音だけになってしまうと、その音源や音を発する方法は捨象されてしまう。そこがとても面白い。視覚や言語を持たないことによって、純粋にリスニングのみの美というか、聴覚的な美学というものが立ち上がってくる。音を振動にまで還元するのなら、何によって、とか、どうやって、というようなことは関係なくなる。ピュアなサウンドだけが意味を持つようになるわけです。
■ もう一方の音の面白さ/フィールドレコーディング
フィールドレコーディングとは、特定のある時ある場所における音をそのまま丸ごと録音することです。コンセプチュアルなサウンドアートの集団である「WrK」のメンバーでもある角田俊也が、この手法を用いて数多くのCDを発表しています。フィールドレコーディングという方法論を突き詰めてゆくと、たとえば普通の人間の耳ではほとんど聴こえていない、あるいはまったく認識できないけれど、高性能のマイクでなら記録できるような微細な音であったり、たとえば地面の振動によるグラウンド・ノイズのような、そこに在るのに聴こえていない音に向き合うことになります。そうしてそれらを音楽的に聴くことが出来るようにもなる。角田さんはしかし、ただランダムにどこでも音を採集しているわけでも、面白い音が捕れそうな場所に出掛けていくのでもなくて、彼が実際に住んでいる場所、生活している土地の中で録音ポイントを探しているそうです。それはいわば音による一種の地域研究というか郷土史みたいな部分があるのです。市役所や図書館で自分が住んでいる町の事を調べることと本質的には似た行為なのだと彼は言っています。
角田さんのやっていることは、一方では非常にコンセプチュアルに、音とは何か、聴くとは何か、というような問題を扱っており、その意味でも深い思考を促すものではあるのですが、同時にもう一方では、角田俊也という一人の生身の人間が、この世界に生存している、という端的な、かけがえのない事実性とも深く関わっている。このことはとても重要だと僕は思います。さきほどのアニミスト・オーケストラのように、音の出自や由来を完全に切断してしまって、純粋にオーディブル(聴取可能)な音にのみフォーカスするというのも面白いのですが、それにしたって実際には録音した人間には顔もあれば名前もあり、それぞれの生活があるわけですね。そして彼らのCDを聴くわれわれにもそれはある。だから実際にはどこまでいっても完全にコンセプトだけに抽象化できるわけではないとも言える。音は物理現象なのだけど、録音や聴取には社会的な関係性やパーソナリティが必然的に関わってくる。この両義性は押さえておかなければいけないことだと思います。
■ 自分/他者/世界を批判すること
もしも音楽というものを定義するとしたら、それはもしかしたら世界中の人間の数だけ定義付けがあるのかもしれないとも思うんですが、では単にそういう無限にも近いようなヴァリエーションの話なのかというと、それだけではない。たとえばここで僕が「私はこれを音楽と呼ぶ」と言ったとして、「私は」の代わりに「誰かが」を代入して「誰かがそれを音楽と呼ぶ」としたら、それは僕は音楽とは思わない音が音楽でありえる可能性の話になる。でも、もっとその先には「誰もがそれを音楽と呼ぶ」というのもあるのかもしれない。まあ実際にはあると思いますが、でもたとえばビートルズだって「俺にとってはこんなの音楽じゃない」という人が絶対にいないとは限らないし、これから生まれてくるかもわからないし、第一そんなことは確かめようがないわけですね。だからたとえば「他の誰がどう思おうと、私にとってこれは音楽である」ということと、「誰にとってもこれは音楽である」という両極のあいだに、「誰かにとってそれは音楽である」という可能性の帯域があって、そこにこそ意味があるのだと僕は思います。どちらかの極に偏ってしまったら、音と音楽のギャップをポジティヴに考える契機は失われてしまう。
「私」と「他者」というか、もっと大きい言葉で言えば「私」と「世界」との間で、どちらかに軍配をあげるということではなく、かといって両方をただ単に認めるだけでもなく、両者が常に健康的で生産的な意味で、お互いにとって批判的なポジションにあるような関係性を築きながら、何らかの表現が行われていくのが面白いことだと思うんですね。だから音楽でも美術でも、頭の中がクエスチョンマークで一杯になるような未知なる体験が、一番重要なのではないかと思います。大抵の場合、そういう体験は自分でコントロールして出会うのではなくて、ある時突然にやってくるんです。未知との遭遇です。でもただ漫然としているだけで遭遇できるとも限らない。だからそういう機会が不意に生じる可能性に対して、どうやって普段から自らを開いておくかというか、未知との遭遇を招き寄せるような無意識の準備が必要だと思うんですね。
これは美術や音楽に限らないことですが、世界には無数の価値基準が存在していて、別に意識的にそうするわけではないとしても、どれだけたくさんの互いに矛盾しあう価値判断の基準を自分ひとりの内に抱え込めるかが、僕はその人間のある種の豊かさを保証する部分だと思うのです。ギャップはけっして無くならないし、ある意味無くなってしまったら困るとも思いますが、その隙間を繊細かつ大胆に埋めてゆく作業が、重要なのだと思っています。]]>
レビュワーの時代なのだ(…)
http://unknownmix.exblog.jp/5000718/
2007-03-27T11:59:00+09:00
2007-03-29T13:36:40+09:00
2007-03-29T13:25:49+09:00
ATSAS
THOUGHT
そこで思い出したので、前に「ブルータス」のCD特集に寄せたディスク・レコメンをアプしておきます。
未知なるもの、ワケのわからないもの、頭の中がクエスチョン・マークで一杯になるようなものに対する感性が、刻々と失われつつあると思います。みんな既に知ってる/分かってることばかり、知りたい/分かりたいように見える。音楽もまた然り。そこで敢て世の趨勢に叛旗を翻して(?)、何コレ?感溢れるナゾなディスクばかりを選んでみました。
CLASSIC ERASMUS FUSION / VOLCANO THE BEAR(BETA-LACTAM RING RECORDS MT092A)
ヴォルケイノ・ザ・ベアーは英国レスターで結成されたカルテット。『痴愚神礼讃』で知られるエラスムスの名をタイトルに冠したこの二枚組アルバムは、独特の諧謔風味に満ちた暢気で陽気で不気味で不可解な演奏がたっぷり詰め込まれている。激ストレンジなのにどこか牧歌的な空気が素晴らしい。
GLASGOW SUNDAY / JANDEK(CORWOOD INDUSTRIES 0779 DVD)
四半世紀以上にも渡り、テキサス州ヒューストンから膨大な数のアルバムを発表している孤高のSSWジャンデック。究極のサイケとも評されるその世界は、音程感ゼロの鼻歌と弾けてないギターが特長(?)だが、一度聴いたら二度と忘れられない。これは初ライヴを収録したDVD。正に生きる伝説!
CUSTOM COCK CONFUSED DEATH / HAIR STYLISTICS(CUTTING EDGE/AVEX INC. CTCR-16069)
最近インタビューや対談などで繰り返し世の中の「未知への鈍感」ぶりを嘆いている三島賞・野間文芸新人賞作家、中原昌也の音楽プロジェクト、ヘア・スタイリスティックス。暴力温泉芸者時代から一貫する(そして彼の小説の世界とも合致する)ズッコケぶりに隠された強度の批評性、そして愛。
THE MAURICIO KAGEL EDITION / MAURICIO KAGEL(WINTER & WINTER 910-128-2)
生存する最も奇矯な大作曲家であるマウリツィオ・カーゲルの豪華三枚組。凡そ高名な音楽家らしからぬトンデモないアイデアで有名だが、これも鳥笛だけのアンサンブルとか意味不明な音楽劇とか常識外れの楽曲が満載。更に3枚目のディスクは本人が監督した映画のDVD。これがまたナゾ過ぎて…!
…とまあ、こんなだったわけですが、ところで以前、トヨサキさんの前著『そんなに読んでどうするの?』を読んだ際に、僕はこんなことを書いた。
今やはっきりと死に体の「文芸批評」に代わって台頭したのは「書評」ということで、この分野の先達ともいうべき永江朗や、先だって『現代SF1500冊 回天編』『同・乱闘編』(太田出版)という圧倒的な名著を上梓した大森望と並ぶ売れっ子が豊崎氏である。こんなこと僕が書くまでもないですが。この本も凄く面白い。「書評家レボリューション」は、「わかりたいあなた」と情報過飽和の交叉点から、半ば必然的に生まれてきた。現在、必要とされているのは、「批評」ではなく「ガイド」なのだ。実はこれは昔からそうだったのだが、「知」的な虚飾を纏っている余裕さえ遂になくなったということなのだと思う。最近のあらすじ本ブームや、音楽のディスク・ガイド本ブームなんかも同じ現象だと言える。いかなるジャンルにせよ、「リテラシー」を支えているのは、ある程度以上の量的&質的な受容体験であるわけだが、まさにこの本のタイトルが表わしているように、とにかく「そんなに読んで」るということ、それだけの時間と労力(とお金もかな?)を投資しているということ自体が価値なのだ。そしてそれは逆に言うと、最早ほとんど誰もそうする気がないということであり、それでも何故だか「わかりたい」という欲望だけは、どこかで空転しながらも生き延びているのだということだ。
(「イズミズム」第二回)
……今、読み直してみても、言いたいことに殆ど変化はない。今度の本の中でもトヨサキさんは「文芸批評」なるものを仮想敵にしている感があるのだが、その気持ちは痛いほどよく分かるとは思うものの、でも実はもうとっくの昔にその勝負はついているのじゃないでしょうか。今は完全に書評家の時代なのだ。トヨサキさんと同年代以下の「文芸批評家」の大半は大学教師や編集者との兼業か、フリーターでもあるか、でなければヒモか、そんなもんでしょう。
そしてしかし、「書評」だってほんとうは「批評」であるわけだし、そうありえるわけで(実際、豊崎由美の「書評」はれっきとした「文芸批評」だと僕は思う)、この二種類の違いは実のところ専ら形式的な違い(書名と作家名がテキストのタイトルになってるかどうかとか、文章の長さとか)と制度的な違い(載ってる媒体の違いとか、目次の中での扱いとか)に過ぎない。だからむしろ「文芸批評」から「書評」が切り出されてくるプロセスの方が、僕には気になる。
話をわかりやすくするために、音楽に置き換えてみよう。90年代に日本の音楽ジャーナリズムに何が起きたのかというと、これはもちろん12インチベースのクラブ・ミュージックの隆盛が大きく寄与しているのだが、レコード店バイヤーにディスク・レビューを書かせる音楽雑誌が急増したということが挙げられるだろう(それは輸入レコ屋チェーンの台頭ともパラレルな出来事だが)。この話は「LIFE」の「教養」の回の番外編で水越真希さんとも少ししたのだが、仕事柄、常に最新のリリース情報に触れているのは当然バイヤーであるわけで、それはすなわちマーケットにおける最新動向ということだが、速報性と目端の効かせ方を最大の目標とする限り、それは当然の成り行きであったのだと思う。そこで当時の僕が考えたのは、ならば自分はバイヤーに影響を与えたり、バイヤーのネタ元になるようなライターにならなくては、ということだったのだが(そして率直に言ってそれは結構成功したと思っている)、それはともかくとして、レコード・ショッピング・カタログとしてのディスク・レビューの隆盛は、情報の過飽和と商品の過剰供給とがもたらした必然ではあったのだが、たとえばクラブ系音楽が、ある時代と世代に枠取られたジャンルであったということがほぼ明らかになってしまったゼロ年代以降、それでも同じやり方しか出来ない音楽誌の多くは、これは自戒も込めて言うのだが、非常に苦しくなってしまったのではないかと思える。それは簡単に言うと、レコ屋で最新盤を買い求めるようなひとが刻々と減少してしまっているからだ。自分なりの現実認識として、僕はもはや音楽において「最新情報」の提示はほぼ意味を成さなくなっていると思う。そしてだからこそ、実は今こそ「音楽批評」と呼ばれるものが(それがどういうものなのか?という問いも含めて)重要になってきているとも思うのだ。かつては「こんなの出ましたよ」と「コレがオススメですよ」だけでも価値があった。しかし確実に状況は悪化しているのであって、それゆえに「レビュー」ではなく「批評」ということの必要性が、逆接的に生じている、というのが、今の僕の考えだ。
僕には、出版界における現在の「書評家の台頭」が、すこし昔に音楽の世界で起きていたことと、やはりどうしても重なって見えてしまう。しかも、ある意味もっとややこしくも問題だと思えることは、ある種の「ブック・レビュー」の言葉が、ありうべき「読者」に向けられているというよりも、むしろ端的に「マーケット」に、すなわち「書店員」だけに向いているとしか思えない場合があるということなのだ。そして更に、90年代の音楽におけるバイヤー=レビュワーの登場は、一時的にではあれ輸入盤市場の好況と繋がっていたのだが、こっちの方は明らかに、もはやシャレにならないほどに本が売れなくなっていっているという残酷な現実に即したものである、ということなのだ……。
実際のところ、その昔だったらば、トヨサキさんが繰り返し俎上にのっけているような、知的エリーティズムの一環として書物に臨む鼻持ちならない読者と、そんなんじゃなくて純粋な愉しみとして本を沢山読む人、という区別はあったし、その差異を強調することにも意味があった。けれどもしかし、今ではその差異は(全体の集合が縮小したせいで)ほとんどなくなってしまっているのじゃないかと僕には思える。良い悪いではなく、そういうことになってしまっているのだと。『どれだけ読めば』には、東大出版会のフリーペーパー「UP」に書かれた文章も収録されていて、テキストの冒頭には東大生へのおちょくりが掴みのネタとしてあるのだけれど、それでも確実に東大生協でこの本はかなり(おそらく他大学よりも)売れているだろうし、そもそも「UP」から依頼があるということ自体が、かつての見方からしたら思いも寄らず「敵」がすりよってきた、みたいなことなのであって(笑。でもまあ事実そうだと思うし、おそらくトヨサキさんもそう思っているだろう)、しかしそれは豊崎由美という一人の書き手の境遇の変容を示すのと同時に、ある程度以上書物を読む人というカテゴリーが、多様性を消失して収縮し、今やひとつの「業界=共同体」になりつつあるという事実をも指し示しているのではないかと思うのだ。
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MAXIMAL MUSIC
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2007-03-16T20:59:00+09:00
2007-03-16T12:08:24+09:00
2007-03-16T10:59:20+09:00
ATSAS
THOUGHT
filmachine phonics Keiichiro Shibuya
デジタル以後のエレクトロニクス・ミュージックの進化は、今世紀に入ってから、はっきり言えば停滞していた。その原因と考えられることはひとつではないが、いずれにせよここに遂に、ある明確なブレイクスルーが現れたという事実を、手放しで歓迎したいと思う。
個人的にも、思考を刺激されるような、言葉を駆動するようなサウンドと出会うことが、ついぞなくなってきていたと実感していたのだが、渋谷慶一郎が試みの果てに切り拓いた可能性には、心底、大いに興奮させられている。
フリークエンシー・ミュージックも、デジコースティックスも、テクノ・ミニマリズムも超えた、21世紀初めての、音楽と音響のニュー・コンセプトー〈マキシマル・ミュージック〉の登場を、ここに宣言したい。
その担い手は、このディスクに書き込まれている。
佐々木敦
http://atak.jp/shop/mp3/atak010.html
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ダンスの/と「知」の技法
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2007-02-15T12:27:00+09:00
2007-02-20T18:20:18+09:00
2007-02-20T12:30:30+09:00
ATSAS
THOUGHT
(追記:言うまでもなくこのエントリの後半のアレコレは『西麻布ダンス教室』への難癖や揶揄などではない。この本は僕のようなダンス素人が現在あらためて読んでみても、その歴史的把握と問題意識の射程において、有用性と有効性を失っていないどころか、今なおほとんど唯一にして最良の「日本語で著わされたダンス入門」であると思える。それに何よりも非常に面白い。誤解なきよう。そして木村覚さんが今回の「超詳解!20世紀ダンス入門」でやろうとしていることが、まず第一にこの本のアップデイトであるということは、第一回の講義にあたって、『西麻布ダンス教室』の冒頭に付されたマトリックスと、木村氏自身が新たに作成したマトリックスが一緒に配布されていたことにも現れている)。]]>
ロスト・ジェネレーション?
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2007-01-12T13:02:00+09:00
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ATSAS
THOUGHT
話の前提としては、同じくサブパソで出演予定の仲俣暁生のブログ(http://d.hatena.ne.jp/solar/)も参照して欲しい。
以下、メールの抜粋。
ロスト・ジェネレーションといったとき、ロスト=失われた、というのが、誰にとってそう意識されているのか、という問いがあると思います。
どこかの誰かが自らとは異なる集団(世代?)をロストと名付けることの問題と、ある集団(世代)が自分らをロストと規定することの問題、言うまでもなく、この二つはいろんな形で接続しているのですが、まず前者が(仲俣君が考察しているような誤解や策謀?によって)どこかから出てきて、それは完全なフレームアップではなくて、やはりそういう言説が出てくるだけの土壌というか道具立てはあったりするわけですよね、そしてそれに対する、そう規定された側からの反抗というか反撥が生じる。
それは、
1)どんなものであれ個が集団へとカテゴライズされることへの反感(個人性というか差異の捨象への違和)
2)それがおおむね、それよりもっと大きな集団=社会から見てマージナルな、いわば差別的な(無)意識を含んでいることへの反感
3)そうした差別的視点の対象に自分が入れられている(らしい)ことが本当に正当なのか?(正当であったらどうしよう???)というような一種の煩悶?
というような過程を経て、やがて彼らは「オレ(たち)は**じゃない!」という反撥から、そのカテゴリーがどうやらはっきり定立してしまうと、今度は「オレ(たち)は**だが、それで何が悪い?!」へと転換する。それは、そうせざるをえないからです。つまり、被差別意識をアイデンティティの根幹、というか自分が自分であることへの誇り?、へと反転させる「しかなくなる」。
たとえば「オタク」という言葉が辿ったのは、こういう過程だったのではないかと。
と、するなら、今度の「ロスト」もまた、やっぱりこれとちょっと似ているように思えます。
朝日新聞とか/ロストジェネレーションが存在する
仲俣君とか/ロストというカテゴライズはミステイクである。あるいはミステイクを敢てする意図が潜在している。
「ロスト」世代/ロストじゃない→ロストである→ロストですけど何か?→ロストであることにこそ他の世代に対するポジティヴな差異がある。
ひとつのポイントは、これが一種の世代論になっているということですね。
重要なことは、ある(ネガティヴな意味合いを含んだ)キーワードでカテゴライズされた集団に含まれているという認識を持った個にとっては、どうにかしてそのネガティヴィティを反転、払拭したいという欲望が生じるし、そこまで出来なくても、それをなんとか合理化しなくてはならない、ということです。
そして、そういう意志の駆動は、最初にそういうキーワードが出てきて以後、命名者ともそう名指された側とも異なる、いわば客観的な第三者たちによって何度となくそのカテゴライズの在り方の正当性に異議が向けられてきた筈の、恣意的なカテゴライズにもともとは源泉を持っているのだ、ということです。
世代論的な構図がむしろミスリーディングを誘っている面があるような気もするので、ちょっと別の例を出してみます。
いわゆる「J文学」が流行?した時、中森明夫がどこかで「J文学については批判するつもりはない。なぜなら、批判するのは簡単だが、そうするとそれが存在していることになってしまうからだ」というようなことを書いていました。この指摘は重要だった(ちなみに「J文学」という言葉を作ったのは僕です。『ソフトアンドハード』参照)。
一時期、浅田彰やスガ秀実とかが、「J文学」に限らず「J」という語にナショナリズムの萌芽を嗅ぎ取って批判していましたが、これはJリーグでもJPOPでも同じだと思うけど、Jが冠された時にはそんなものは存在していない、というのが僕の意見です。Jにナショナリズムが貼り付いてくるのは、J=ナショナリズム、という批判的言説が出てきて「から」です。
しかし中森さんが危惧したような回路を戦略的に利用する、という手はある。僕は実際、音楽の分野では、それを有効に活用しました(ローファイ/ポストロック/音響派など)。
「J文学」でも「ポストロック」でも、その中にカテゴライズされた当の作家や音楽家たちは、ほとんど全員がそんなキーワードを実際には無視するか反撥を宣言していました。
しかし、そうしたキーワードがもうすこし一般化すると、つまりマスコミやマーケットで一定のプレゼンスを得るようになると、自ら「J文学」とか「ポストロック」とか名乗る者たちが出てきました。しかしその時、そもそもそのような新たなキーワードでカテゴライズしたくなるような同時多発的なムーヴメントは、明らかに終息に向かっている。あるいは、「これは使える/使っていい」となると、態度を一変させて名指されることに寛容、積極的になる者もいる。
長くなりましたが、さしあたり僕が言いたいことは、要するに、名指す側と、それを判断する側と、名指された側、の立場は相当に違っていて、とりわけ「名指された側」には集団的な分布の上でも、時間的な経緯の中でも、かなり複雑な変化が生じる。
「J文学」や「ポストロック」の場合は、それ自体がちっちゃいから、「名指された側」の色分けもよりちっちゃいので、あまり問題にならないけれど、ある世代自体を名指すような、つまりロストみたいなキーワードの場合は、その色分けの部分それぞれもけっこう大きくなるから、そこから出てくる反応も目立つ、ように見えることがあるかもしれない。
つまり「ロスト」に(最初はネガティヴに、次いでそれをそのまま反転させた形でーーすなわち実際にはネガティヴィティ=被差別意識を暗に保持したままーーポジティヴに)アイデンティファイする言説が、当然出てくるだろうということで、そして敢て言えば、それって意味あるの?、というようなことです笑。]]>
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