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2007年 07月 04日
↓で、「絶対安全文芸時評」の第七回で書いたボヤキ(?)がコレです。ボヤいてる割にはヤル気満々です(苦笑)。
早いもので本連載も第七回。すなわちちょうど過去半年間に渡って、毎月刊行される文芸誌に掲載されている全ての小説(連載、連作を除く)をせっせと読んで、個人的な観点から十作を選んで順位を付けて短評を書いてきたわけです。もともと自分から思いついて始めたことですし、そもそも以前から割とディープな「文芸誌ファン」でもあったのですが、しかしこうして続けてきて我が心中を顧みるに、そこにいつのまにか自分でも予期していた以上の、猛烈な徒労感というか、バカバカしさにも似た虚無感のようなものがドカーンと育っていることに気付きました。 ……嘘です。そんなことは最初から分かっていたことなのだ。それは始める前からもちろん織り込み済みで、むしろ「それゆえに」こんな連載をやろうと考えたのだから。はっきり言って、こんな試みは正気の沙汰ではない。それどころか、意味のある狂気でさえない。実際、この連載のことを話すと友人知人は皆、例外なく「よくそんなことやるねー」と驚嘆してくれる。そしてその驚嘆の視線は、偉人に対するものというよりは珍獣に向けられるそれであって、そして幾らかは常に冷笑的でもあるのだ。彼らは私がわざわざ好き好んで愉しくこんなことをやっていると思っているのだろうか。好き好んでというのはかなり概念を拡張すれば言えなくはないけれど、しかし断じて愉しくなんかないよ。完全に苦行以外の何ものでもないですよ。全然面白くないよ。そして、その面白くなさはもちろん、文芸誌に掲載されている小説が、幾つかの貴重な例外を除けば、まったくもってほんとうにつまらない、ということによっている。しかし、つまるかつまらないかも読んでみなくてはわからないのだから、これからも私は文芸誌をガシガシ読むつもりだし、この連載も(あとしばらくは)続くだろう。しかし今回はちょっと小休止して、この「絶対安全文芸時評」の絶対安全ぶり(?)について、もう少し書いてみたいと思う。 第一回で、私は本連載のコンセプトを、次のように述べておいた。 この種の「文芸時評」は、従来は(そして現在も)「文芸プロパー」の内側でのみ行なわれるのが普通で、それゆえに様々な摩擦や干渉や自主規制等々があったりするわけですが、「文学」とは無関係の本誌でやれば「絶対」に「安全」でしょう、そちらもこちらも(笑)。 別の言い方でいうと、「文芸誌」というか「(純)文学」というか「文壇」というか、そうゆう世界は基本的に相当強固にクローズドサーキット化しており、内部的な均衡と多少の摩擦の繰り返しと、主として賞配分に関わるヘゲモニー争いと、組織防衛的観点に立った諸々の表面張力などから構成されている。端的に言って、そこには「外部」が存在していない。ここ何年か、映画監督や音楽家や劇作家に小説を書かせたり、精神分析医や哲学者や脳科学者などに文芸批評を書かせることが「文芸誌」では流行しているが、個々の試みの成果はともかくとして、それらが「外部」の導入というよりも「内部」の充実を図ったものであることは疑いを入れないだろう。 そうではなくて、「文学」の「外部」は、何よりもまず「文芸誌」以外の場に「文芸誌」の「読者」が存在する、という端的な事実性によって生じると私は考える。「文芸誌」の「時評」は「文芸誌」にしか載っておらず、それどころかそもそも「文芸誌」の書き手や作り手でさえ、自らが関わっている以外の頁をあまねく読破することはしていない(というのはかなり好意的な書き方で、実際には「ほとんど誰も読んでいない」というのが実情に近いのかもしれない)。つまり今や(昔からそうだったのかもしれないが)「文芸誌=文学」とは、「関係者=内輪」だけがいて「読者」がいない、という極めて不可解な、ある意味では異常な場所になってしまっている。いや、おそらく純粋なる「読者」はどこかに必ず一定数は(どれほど稀少であったとしても)存在している筈なのだが、その者らはなぜだかいつのまにか不可視にされてしまっていて、「文芸誌」の側も、そのような「見えない読者」の存在を考慮することをとっくに辞めてしまっているのではないかと思うのだ。 ならばそこで、そんな「見えない文芸読者」を可視化してやろう、というのが、この連載の主旨というわけである。「文芸プロパー」の「外部」にいる私が、誰に頼まれたわけでもないのに毎号の「文芸誌」を機械的に全部読んで、選別し、評する。もちろん私自身の個々の批評の是非や精度は別途、問われるべきではあるだろうが、重要なことはむしろそれ以前の大前提である「ここにひとりの読者が存在している」という事実の方なのである。それは、そんなことを敢てやろうとする者が他に誰もいないがゆえに、たとえごく小さなものであったとしても、「文学という内輪」に対する紛れもないひとつの問題提起になり得る、と私は考えた。どこにもいない筈の「文芸誌」の「全頁読者」が、ここに、すなわち寄りにも寄って「スタジオボイス」というオシャレなサブカル雑誌にいますよ、という一種の挑発が、私がやってみたかったことなのだ(そういう意味で、この無謀な連載企画にゴーサインを出してくれた本誌品川編集長の英断には心から感謝している)。 だから「絶対安全」というのは、こんなことを書くのは本当に野暮で嫌なのだが、もちろん皮肉である。筆禍に遭うこともないだろうが、向こうも痛くも痒くもない、そんな「絶対安全」ぶりを最初から宣言してしまうことで、ここまで説明してきたような連載の企てを、逆説的に強調してみたわけだ。そして、にもかかわらず、というか、予想通りに、というか、連載開始半年を経て、今のところ見事なまでに「内輪」からは何の反応もない。多少は楽しみにしてくれている読者はいるようだし、面識のある何人かの作家の方からはレスポンスをいただいたりもしたのだが、それ以外はまったくもって「絶対安全」を貫いたまま現在に至っている。よかったよかった(笑)、とはいうものの、やはりさすがにここまで打てば響かない無風状態を感じると、最初に書いたような徒労感や虚無感が、最初からわかっていたこととはいえ、徐々に膨らんできてしまうのは致し方ないことであって、更に読まされる小説のつまらなさ加減も相俟って、何でオレはこんなことをやってるんだろう?という根本的な疑問さえ頭をもたげてくるのだ。そして明らかに、この「つまらなさ」と「虚無感」とは、どこかではっきりと繋がっているのだと思える。それはつまり、もはや「文学」は「外部」を必要としていない、ということ、そればかりか、けっして「外部」を持たないということによってかろうじて生き延びている、というのが現実なのではないか、ということだ。 はっきり言って、私は現在の「文芸誌」に載っている小説の大半は、読まれるに値しないと思っている。これに対しては二つの返答が可能だろう。1)そう思うお前が間違っている。2)そうかもしれないが、それを認めたら「文芸誌=文学」は存続できなくなる。1)に関しては、それこそまさに批評に対する批評の問題になるのであって、私はただ私自身に固有な責任と自覚の範疇で、読み、判断し、書いているだけだ。佐々木敦は馬鹿だから無視すればよい、というのもありうる対応だろう。しかしその対応が正しいのかどうかもまた、更に別の審判に晒されることは覚悟しておいた方がよい。2)についてだが、これこそまさに組織防衛的な「内輪」の発想と呼ぶべきものだと思うのだが、私はまったく同意しない。「文芸誌」は、「文学」は、もっとずっと面白くなる筈だ、面白く出来る筈だ、と私は思っている。では、どうしてそう出来ないのか、それは作家や編集者のせいばかりとは言えない(付言しておくが、優秀な書き手や作り手は沢山いる)。それはむしろ歴史的な、そして構造的な問題であるような気もする。そして、そのことを問うためにこそ、「文学」の「外部」の導入が必要なのだ。
by ATSAS
| 2007-07-04 15:40
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