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2007年 06月 05日
・前ブログでもアップしてあったのだが、唐沢本を読んで思い出したので、参考までにこちらにもコピペしておきます。
ISMISM5 『UFOとポストモダン』はとても面白い本だった。著者の木原善彦氏のことはウィリアム・ギャディスの唯一の訳書『カーペンターズ・ゴシック』や『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』の翻訳家として、またトマス・ピンチョンの非常によく出来た研究書の著者として知ってはいたが、こういう本も書ける人だとは思わなかった。いわゆる「UFO=未確認飛行物体」と「エイリアン=宇宙人」にまつわる夥しい現象と言説の歴史的変遷を辿りつつ、両者を一種の「文化的イコン」として捉えることで、題名にもあるように「ポストモダン」の大衆的な(無)意識の変容を析出しようというのが、この本の狙いで、いってみれば人文科学方向から取り組んだ「トンデモ批判」(参考文献に「と学会」の本も挙げられている)というべきものとなっている。 なるほどこの手があったのかーと思わず唸ったのは、数多のポストモダン論の類いが、どうもなかなか「海外(たとえば米国)」と「日本」との社会的・文化的コンテクストの違い(と同質性)を上手く処理できていないように見える(従って我が国の「ポストモダン論」はどうしてもドメスティックな偏りを纏ってしまいがちだ)のに対して、ここではUFO/エイリアン神話の受容というファクターによって、その点がかなり巧妙に説明されていると思えるからだ。しかし今回の話は、そういう方向とはちょっと違う。 木原氏は、大澤真幸や東浩紀のポストモダン論に依拠しつつも、随所に独自の視点を導入している。よく知られているように、大澤氏が『虚構の時代の果て』で提示した、「理想の時代」(第二次大戦後から連合赤軍事件まで)と「虚構の時代」(地下鉄サリン事件まで)という時代区分を受けて、東氏はそれ以降を「動物の時代」(『動物化するポストモダン』)と名付け、更にそれを大澤氏は「不可能性の時代」と命名し直してみせた(『現実の向こう』)。これに対して、木原氏は「動物/不可能性の時代」は、より端的かつ直截に「現実の時代」と呼ぶ方がいいのではないかと述べている。しかし、その「現実」は「不可能性/動物/現実の時代」以前のそれとは、かなり異なっている。 ただし重要なのは、「現実の時代」と言うときの現実とは、皆が一致して認めるようなただ一つの「大文字の現実」と呼べるようなものとは異なり、複数存在しうるもの、「一つの現実と別の現実」「私の現実と他者の現実」という対立で考えられるものだということです。少しあか抜けない言い方をするなら、「諸現実の時代」と呼んでもいいでしょう。以前は大方の人の意見が一致する「現実」が存在して、その対立項として「理想」や「虚構」がありました。ところが現在は現実そのもののとらえ方が多様化していて、かつ、それが異常な事態とみなされるのではなく、当たり前のこととなってきています。 『UFOとポストモダン』、P186-187 これは重要な指摘だと思う。というのは、ここで言われているのは、揺るぎない確固とした、ただ一つの「現実」がどこかに(ここに)存在していて、しかしその捉え方、見方は各人各様だ、ということではなくて、もはや「現実」そのものが多様化/複数化している、ということだからだ。この違いは一見、些細なレトリックに過ぎないようだが、実は決定的だ。なぜならこれは、すでに「現実」など存在していない、ということと、ほとんど同じことであるからだ。 以前なら、一般的に前提される、ある一つの「現実」に対して複数の「個人的価値観」が存在していましたが、現在はそれとは逆に、「個人的価値観」に基づいて各人が自分の好きな「現実」を選び取っていると言えるかもしれません。 前掲書、P187 というわけで、UFOやエイリアンを信じたい者(ビリーヴァー)は、どれほどより信じるに足る実証的なデータによって否定されようとも、いかにロジカルに完膚なきまでに論駁されようとも、むしろそれゆえにこそ、いつまでも/どこまでも、それを信じ続けることが可能となる。それはつまり「それはウソだ」というのが本当はウソなのだ、と考えることの「自由」が、底抜けに保証されてしまっている、ということだ。あからさまに虚偽でさえある「現実」の否定の否定が、常に可能であるということ。 では,何故そんなことが可能なのか、そのような「自由」を保証しているのは、一体何なのか。『UFOとポストモダン』を読みながら、ふと僕が思い出したのは、斎藤美奈子との書評対談の中で高橋源一郎が語っていた、次のようなくだりだった。 高橋「でも怖いよね。まず好き嫌いっていうエモーションがあって、それを支えるために無限に情報を持ってくる。でも集めるのは自分の好きな情報だけで、それで殲滅戦になる。(中略)で、根本には〈本当のことはどこかにある〉っていう確信があるわけ。どっちにもないかもしれないよ(笑)」 「日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2006」、P18 論議されているのは、ちょっと前にベストセラーになった、ある本についてなのだが、そのことはとりあえず省く(ウザいので)。ここで高橋氏が言っているのは、もちろんインターネットのことだ。「諸現実の時代」は、明らかに「ネットの時代」の別名である。膨大に、ほぼ無限に蓄積された、そしてしかも刻々と増え続けるネット上のデータからは、いかなる判断をも引き出すことが出来る。高橋氏の発言を敷衍するならば、更に厄介なのは、特に「まず好き嫌いっていうエモーション」があるわけでなくとも、検索とリンクとコメントとトラックバックの、あくまでも偶然的でしかない経路が、ある人間のある事象に関しての「好き嫌い」を、操作主抜きに操作し誘導し決定してしまうことが起こり得る、ということだ。そして、そのようにして偶々齎された「判断」を、どこまでも強化してくれるデータのバッファが、ネットには有る、ということだ。しかもそれは〈本当のことはどこかにある〉という根拠のない確信と裏腹になっている。 それだけではない。インターネットのもうひとつの特徴である「ヴァーチャル性」もまた、この「好き嫌い」の「強化」に貢献している。和田伸一郎は『メディアと倫理』で、「画面」という解読格子を通して、独自の「メディア批判」を展開している。テレビ、映画に続いて、この本の後半ではネットでのいわゆる「叩き」の問題が取り上げられているのだが、「インターネットではなぜ人はかくも卑劣になれるのか」と題されたこの章(第三章)は、示唆に富んでいる。たとえば和田氏は、イラク戦争人質事件における「自己責任」論の噴き上がりに関連して、もしもメディアの報道を介してではなく、目の前で実際に人質が殺されようとしていたのだとしたら、それでもなお「自業自得だ、死んで当然だ」と口にできるだろうか、と問いかけ、続いて次のように述べている。 つまり、ここで言いたいのは、この誹謗中傷という卑劣な行動は、退きこもった〈個室〉からなされているからこそ、その行動の主体はリスクを冒すことを免れ、その行動の責任を負わず、罪悪感を感じずに済んでいるが、もし〈個室〉に保護されないならば、この主体はこのような見物の場面でなされることと同じことをしているという想像力が一部のネット利用者には決定的に欠けているのではないかということである。 とはいえ、これは一部のネット利用者が悪い人間だから,そうした想像力が欠けているということではない。こうした事態が生じるのは、インターネットの画面とそれが見られる〈個室〉が相互に補完しあう中で気づかれずに進行する世界から退きこもる運動に利用者が身を任せることの一つの帰結にすぎない。 『メディアと倫理』、P157-158 和田氏の語調論調は、ほとんど激烈と言ってもいいほどで、この種の本としては例外的なほどの(取り方によっては些か不可解でさえある)熱を帯びているのだが、ここで言われていることは要するに、インターネットが仮構するヴァーチャルな公共性が、かえって従来の真正の「公共性」の崩壊を促している、ということだ。そこでは誰もが限りなく「無責任」でありえるからこそ,「他者」の「責任」を安易に要求出来てしまう。 したがって問題なのは、主体的に誰かを中傷したその個人の人格ではなく、中傷しても何も罪悪感を感じずに済むような空間が〈組み立て〉られ、誰もが簡単にそのような空間の住人になることができる環境こそが問題なのである。特定の人格を持った「個人」という確固とした枠組みは、すべての人間が等しく属すことができるこのような〈非人称的〉な空間に帰属するやいなや溶解してしまう(「匿名性」は、まだこの「個人」という枠組みに縛られている)。 前掲書、P159-160 ここまではっきり言われると、意見が分かれるかもしれない。がしかし、ネット上の倫理学が立ち上げられなくてはならないという問題提起については、その通りだと思う。それがいかにして可能なのかは、今の所はまだ見当が付かないとしても(この点についての和田氏の論議はとても誠実なものではあるが、必ずしも成功していないように僕には思える)。 とはいえ、僕は画一的なネット批判を今更したいわけでは全くない。けれども、僕にとってインターネットとは、あくまでも様々な「未知との遭遇」のためのツールのひとつであり、その意味では大いに役立っているのだが、しかしある種の(もしかしたら大多数の?)人々にとっては、それが真逆の「既知の確認」「未知への鈍感」のためにしか機能して/利用されていないようであることには、いささかうんざりせざるを得ない。残念なことに、それは現在,色々な局面で見られる、「他者」への寛容さの不在ぶりと、どこかで繋がっているように思えてしまうからだ。 中原昌也と高橋ヨシキの非オタク二名が、海猫沢めろんと更科修一郎から「オタク」のメンタリティについて話を聞く、という趣向の『嫌オタク流』は、表向き(?)よりもずっと深い内容の本で、読みながら頷くことしきりだったのだが、引用したい所は多々あるけれど、もっともブンブン首肯したのは、以下の部分だった。 中原 (前略)身のまわりを自分の好きなものだけで固めて、それで何とかなってしまう状況は耐えられないし、本当に嫌いですね。単なる感情論でしかないけど、それで世の中が面白くはならないもん。 高橋 今はひとつの映画なり小説なりの中に自分が好きじゃない要素が入ってくるだけで観客や読者に拒まれるから。 更科 作品を「教養」じゃなくて「ツール」として捉えてますね。「泣きたいときはこのアニメ」、「オナニーするときはこのゲーム」みたいな。作品が総合薬ではなくてサプリメント化していると言いますか。 中原 その問題って、結局は今の世の中のダメな部分すべてに影響していて、たとえば『映画秘宝』編集部に届いた読者からの感想で一番笑ったのが、「自分の知っていること以外はつまらなかったです」という批判。 『嫌オタク流』、P190 この「自分の知っていること以外はつまらない」という感覚が暗黙に前提していて、しかし、どうしてだか忘却してしまっているのは、では自分はどうやってそれを知るに至ったのか、ということだ。「知っていること」も「知らないこと」だった時期が当然あるわけで、それをどんどん遡っていけば、やがては「知る」ということの端緒に辿り着く筈なのに、ひとはいつしかそれを忘れてしまう。そして、「知っていることしか好きじゃない」と「好きなことしか知りたくない」は、どっちがどっちか分からなくなり、「知らないこと」がイコール「嫌いなこと」へと短絡してしまうのだ。 『嫌オタク流』は文字通り「オタク批判」の書なのだが、しかしそこで語られていることは、必ずしもいわゆる「オタク」の方々のみに限定的に妥当するものではない。むしろ問題は、もっとずっと根深い。 中原 結局、オタクの立脚しているメンタリティって一般人のメンタリティとまったく同じで、僕はそこに憤りを感じるんですよ。(中略)ノイズを排除せずに毎日を送っていかなきゃ絶対にダメだし、ものすごくきれいごとを言っちゃうと、異物(ノイズ)を受け入れる姿勢がない限り、世界平和は絶対にありえないんですよ。オタクの人たちはみんな異物に関しては頑なでしょう? そのメンタリティは一般人とまったく同じなんですよ。 前掲書、P191 中原君の主張(!)に、僕は100%同意する。これはけっして「オタク」や「一般人」に対する勝手な決めつけなどではない。こんな言い方があからさまにステレオタイプ的であることは彼は百も承知だろう。彼が憂えているのは、つまりはUNKNOWNなるものへの感受性の摩耗が、不気味なほどに蔓延している、ということなのだ。 と、書きながら思ったのだが、いま述べつつあることって、かなり昔に、この連載の前身(正確には前身の前身)で何度か書いたことと、ほとんど変わっていない(苦笑)。たとえば現在は『ソフトアンドハード』に収録されている「UNKNOWNはMIXされたか?、あるいは楕円の両端について」とか。その文章を書いたのは2002年のことで、もう四年も前のことなのだが、僕が進歩していないということもあるだろうが、非常に残念なことに、事態はそれ以後、もっと悪化の一途を辿ってしまったような気がするのだ。 更科 誰だって若い頃は面白そうだと思ったもの全部に手を出して、そのおかげでワケの分からないことになったりすると思うんですけどね。 中原 でも、今、そういう情報自体が少ないし、何も僕はマニュアルやカタログ自体が悪いとまでは言いませんけど、もう少し自分のアタマで考えたりとかすればいいのにねえ。でも、確かにそれは辛いことなんだよね。誰とも共有できない行為だから。 高橋 誰が助けてくれるわけでもないし。 中原 それは本当に辛いことだから誰もそんなことはしたくないんだね。 更科 早いうちに徒党を組んでおきたい、という話ですよ。 中原 ああ嫌だ嫌だ。 同前、P202 信じていることしか信じたいと思わず、知っていることしか知りたいと思わず、信じられないことと知らないことを意識的無意識的に排除して、そうやって「自分の現実」を拵えることが、極めて能率的に出来てしまう世界に、僕たちは生きている。 しかし、ほんとうにアタマが痛いのは、たとえば『嫌オタク流』にしても、そこで真の意味で批判されている人々(繰り返すが、それは「オタク」だけではない)は、おそらく最初からこの本を開くことさえないだろうし、仮に偶々読んでしまったとしても、そこには嫌悪と反撥しか生まれないのではないか、と思えてしまうことだ。そしてまた同時に、この本を読んで「そーそーオタクってキモいよな!」とか言って溜飲を下げる人こそが、実は批判されるべき人種と同質であるにもかかわらず、彼らはそのことに気付かないし、気付かなくてもいいようになっている、ということなのだ。 また救いのないことばかり書いて…という声が聞こえてきそうだが、しかし思うに、このような、いわば価値観のセグメンテーションは、今ではほとんど後戻りが難しいほどに進行していて、だから実際のところは、ここで僕がこんなことを書いていることさえも、どの程度の意味(意義)があるのかよく分からない、というのが正直な感慨で、それがつまりは、実を言えば前号で連載を休ませてもらった、ひとつの理由だったのだ。 今や誰もが、自分の言葉が通じる相手にだけ話しかけているように、僕には思える。何か重要なことを伝えようとしているように見える場所であればあるほど、そう思えてならない。残された選択はといえば、それでもいいや、分かってくれてる(ように思える)人はまだいるんだし、と、ある意味開き直るか(しかしそれはそのまま「ミイラ取りがミイラになる」ことを意味する)、でなければ、もう単に降りる、しかない。かくして「オタク」すなわち「自分(たち)ビリーヴァー」は勝利する、というわけだ。 では、どうしたらいいのか?……もっとよく考えてみなくてはならない。
by ATSAS
| 2007-06-05 00:41
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